第4話:三部登録
翌朝、体育館へ向かう足取りは、泥の中に沈み込むように重かった。
肺の奥に溜まった澱みが、一歩進むたびに錆びた釘のような痛みを訴える。昨夜の左手の痺れは、今や冷たい鉛の感覚に変わっていた。だが、それ以上にショウタの首を絞めていたのは、ボロ布のような毛布の横に置かれた「三十二万クレジット」の督促状だった。
今日中に支払わなければ、母の肺を動かす生命維持装置は、合法的に停止される。
この多層都市において、貧困とは静かな処刑だ。
ショウタは震える手で、重い鉄扉を押し開けた。
「……三十秒、遅い」
清盛の声が、廃墟の静寂を切り裂いた。
彼は昨日のショウタの吐血など、記憶から抹消したかのように、腕を組んでホログラムの戦術板を凝視していた。
工藤は無機質な速度で指を動かし、スエは義腕の潤滑油を差し替え、タイシは黙々とボールに滑り止めを塗り込んでいる。昨日まで赤の他人だったはずの「欠陥品」たちが、当然のようにそこにいた。
追い出されなかった——。
その事実に、ショウタの胸の奥で、小さく、しかし苦い熱が発火した。それは安堵などという生易しいものではない。この地獄の底に、辛うじて爪を立てることを許された、敗北者たちの連帯感だった。
「これが三部の現実だ。目を開けてよく見ろ、ガキ」
工藤がスワイプした空間に、三層のピラミッドが浮かび上がる。
「一部は、神々の遊戯場。二部は、機人と人間が食い合う混合墓場。そして三部は——俺たちのような『ゴミ』が、互いの肉を削り合う肥溜めだ」
画面に躍る優勝賞金:二百万クレジット。
一瞬、ショウタの鼓動が跳ねた。二百万。それだけあれば、母をあと数ヶ月は延命できる。
「計算したか? だが、無駄だぞ」
工藤の眼鏡が、冷たく光った。
「お前が欲しがっている標準的なチタン製肺ユニット。換装費用は、最低でも一億二千万だ。三部で六十回連続優勝して、ようやく中古の指一本が手に入る。ここでは、勝つことが『生きる』ことには繋がらねえ。ただ——『死を少しだけ先延ばしにする』だけだ」
希望の輪郭が、金の力によって残酷に削り取られていく。
「だがな、ショウタ」
不意に、清盛が歩み寄った。
その大きな掌が、ショウタの痩せこけた手首を掴む。
驚くほど、熱い。
吹雪のような声とは対照的な、燃え盛るような体温。清盛の瞳の奥に、数えきれないほどの仲間の「死」を飲み込んできた者の、昏い炎を見た気がした。
「死を先延ばしにし続けて、その果てにしか『明日』は存在しねえ。……やるのか。それとも、その腐った空気に抱かれて、今ここで静かに腐り落ちるか」
差し出されたのは、バイオ・リンクの登録画面。
ショウタは、自分の傷だらけのウォッチを、清盛の黒い端末に重ねた。
ジィィィンッ!
鋭い電子音とともに、手首に焼火箸を押し当てられたような衝撃が走った。血管の中に熱い液体金属が流し込まれ、心臓の真上が、ドクンと不自然に跳ねる。
ウォッチの画面に、緑色のゲージが五つ、脈動するように現れた。
【バイオ・シンクロ完了。残りライフ:100】
ドッヂボールが、もはやスポーツなどという娯楽ではなく、この腕を流れる血をチップにした「命の契約」に変わった。ライフがゼロになれば、デバイスが心臓を強制停止させる。それが、三部の、亡者たちの掟だ。
「チーム名——〈ストリートドッグス〉。野良犬どもの初陣を飾るぞ」
清盛が登録を完了させた、その直後。
ホログラムが激しい警告音とともに、鮮血のような赤に染まった。
【初戦マッチング確定:vs 〈マッドドッグス〉。三日後、D25廃棄スタジアム】
「……嘘だろ」
タイシの顔から、余裕が消えた。
巨漢の彼が、自分の太い腕を、無意識に抱えるようにさすっている。
「よりによって、一回戦から『関節狩り(ジョイント・ハンター)』の連中かよ……」
声が、微かに震えていた。
「あいつら、ボールを当てに来るんじゃない。ボールを『杭』にして、生身の関節を根こそぎ粉砕しに来るんだ。前回、対戦相手の半分が再起不能になった。膝を粉砕され、二度と歩けなくなった奴。肘を逆に折られ、一生自力で食事ができなくなった奴……。廃棄スタジアムは、奴らの『解体場』なんだよ」
ショウタは、自分の手首に刻まれたライフゲージを見つめた。
母を救うための二百万。その前に立ちふさがる、人の形をした狂犬たち。
逃げ道は、もうどこにもない。
ふと顔を上げると、サクラと目が合った。彼女はすぐに視線を逸らしたが、その瞳の奥には、昨日までの「失望」ではない、同じ泥沼に沈む者を見るような、冷たく湿った共犯者の光があった。
「……やってやる。どうせ俺の体は、最初から壊れてるんだ」
震える左手を強く握りしめると、そこには昨日の「シュート回転」の痺れが、熱い芯となって、まだ確かに残っていた。
——野良犬たちの、絶望へと疾走する三日間が始まった。




