第3話:隠し事は最初からバレている
翌朝、体育館の重い鉄扉を押し開けた瞬間、ショウタの肺を刺したのは冷たい「鉄の匂い」だった。
染み付いた油、誰のものとも知れぬ古傷の血、そして剥き出しの闘志。準備運動などという甘い儀式はない。扉をくぐった瞬間から、そこは戦場だった。
「……ッ、ぐ!」
清盛の放つノックは、もはや練習ではなく処刑に近い。
時速百五十キロを超える超硬質ゴムの塊が、空気を真空に変えながら、ショウタの耳元を死神の鎌のようにかすめていく。生身の体でこれを受けることは、暴走する配送トラックに正面衝突するに等しい。一発でも掠めれば、肉は裂け、骨は砕ける。
ショウタは床を舐めるように滑り、重力に逆らうように跳ね、泥臭くかわし続けた。
「いつまで踊ってやがる。ここはダンスホールじゃねえんだぞ!」
タイシの罵声が飛ぶ。剃り上げた頭から首筋までを這う古びた刺青が、激しい動きで脈動していた。双子の山田と浜脇がニヤつきながら、予備のボールを壁に叩きつけて鼓膜を揺さぶる。彼らの動きは鏡合わせのように精密で、逃げ道を塞ぐ包囲網を瞬時に作り上げていた。
ショウタは答えなかった。答えるための酸素が、すでに枯渇していた。
視界が明滅する。脳裏に、酒と煙草に焼けた父の低い声が蘇った。
『いいか、ショウタ。剛速球は力で投げるんじゃない。風の目を読み、指先でその「軸」を盗むんだ……』
右腕は、昨夜の無理で内出血が広がり、鉛のように重い。
ならば——。
ショウタは一晩中、激痛に耐えて握りしめていた「左手」を、弾かれたように突き出した。
無意識。
衝撃が指先から肩、そして脊髄へと突き抜ける。全身の神経がその一点に凝縮され、世界から音が消えた。自分の肺が腐っていることさえ、一瞬だけ忘れられた。
ギャリッ!
ボールが空気を噛み、咆哮を上げた。
ショウタの左手から放たれた弾丸は、直線の軌道から急激に、あり得ない角度で「内側」へと切れ込む——異様なまでの鋭角を伴ったシュート回転。
それは、迎撃しようとしたサクラの黒髪を数本焼き切り、コンクリートの壁に設置された強化鉄板に激突した。
激しい金属音とともに、鉄板が深々と陥没し、ボールが壁の一部と化す。
静寂。
サクラは、整った顔立ちを驚愕に引き攣らせ、首筋を抜けた「死の残像」に震え、立ち尽くした。
「……シュート回転? それも、この出力で……?」
工藤が端末の数値を凝視する。眼鏡の奥で、瞳孔が収縮していた。清盛の瞳に、初めて微かな、だが確かな「飢え」が宿った。
しかし、奇跡の代償は残酷だった。
「——ガハッ、……ぁ、……ッ!」
ショウタの視界が、濁ったオレンジ色に染まる。
肺が内側からカミソリで千切りにされているような感覚。喉の奥で、熱い塊が逆流してくる。彼は必死に壁を向き、血に濡れた口元を隠そうとした。
だが、その逃げ道を、無機質な機械音が塞いだ。
「……脈拍、二百。気道の狭窄率、臨界点まで残り三パーセント」
スエだった。
彼女の銀色の義手から放たれる青いスキャン光が、ショウタの背中を、皮膚を、そしてその奥で腐りかけている肺を無慈悲に可視化していく。
「お前の肺は、ナノマシン汚染による組織壊死を起こしている。……いわゆる、出荷前の欠陥品だ」
フラットな声が、体育館の熱を氷点下まで引き下げた。
サクラの驚きが瞬時に「失望」へと塗り替えられ、タイシが嘲笑を吐き捨てた。
「チッ……欠陥持ちかよ。どおりで、使い物にならねえわけだ」
双子が肩をすくめ、存在しないものを無視するように目を逸らす。
ショウタは壁を掴み、震える足で振り返った。
「……まだ、投げられる。……今の球だって、僕が投げたんだ! 肺なんて、関係な——」
「関係ある」
清盛の声が、すべてを断ち切った。
彼はショウタの顔を一度も見ようとはしなかった。壁にめり込んだボールを片手で力任せに引き抜き、冷たく言い放つ。
「コートの上では、病人も子供もいねえ。いるのは『駒』か『ゴミ』か、そのどちらかだ」
清盛は背中を向け、奥の暗がりへと消えていった。その歩みには、一欠片の憐憫もなかった。
「今日は解散だ。……明日の朝、その腐った肺がまだ動いているなら、来い。死体なら、ゴミ収集車にでも放り込んでおく」
残されたのは、消毒液とカビの混じった匂い。
ショウタは、血の滲んだ左手を、壊れるほど強く握りしめた。
夜の雨の中。
吸入器を喉の奥まで突っ込み、肺を麻痺させる苦い薬を流し込む。
「……見てろよ」
涙も出ない。ただ、腹の底から湧き上がる怒りだけが、彼を支えていた。
明日も行く。這ってでも行く。
左手の痺れが、あの「赤」が確かに自分の中に宿ったことを、彼がまだ「人間」であることを、暗闇の中で叫び続けていた。




