第2話:寄せ集めの亡者たち
その場所は、地図から抹消された都市の肺胞だった。
配送作業の帰り道、しょうたの足を止めたのは、静寂を切り裂く暴力的な破裂音だった。
——シュッ、……ドォンッ!
コンクリートの壁を、重い質量が音速に近い速度で打撃する衝撃。上層のスタジアムから降ってくる「興行」としての空疎な轟きとは違う。それは、生存本能を逆撫でする、剥き出しの殺気だった。
肺の奥が疼く。関わってはいけない場所だ、と理性が警笛を鳴らす。それなのに、足は磁石に引かれるように、影の濃い路地へと吸い込まれていった。
蔦が血管のように絡みつき、看板の剥げ落ちた旧時代の体育館。半開きの鉄扉から漏れ出してくるのは、下層の湿った澱みを焼き払うような、摩擦と汗の「風」だった。
隙間から覗いた光景に、しょうたの鼓動が跳ね上がった。
——飛んでいる。
照明の死んだ空間を、数人の中年や若者が、重力を嘲笑うような軌道で舞っていた。
彼らが追うのは、黒いゴムを幾重にも巻き付け、不規則な突起を持つ歪な重量球。それが壁を、天井を、床を、複雑な幾何学模様を描きながら跳ね回っている。
機人ではない。そこにいるのは、醜く盛り上がった筋肉を汗で光らせ、擦り傷だらけの肌を晒した「人間」たちだった。
「スエ、仕留めろ!」
鋭い号令が飛ぶ。
中心で指揮を執るのは、側頭部に深い傷跡のある男だった。飢えた野獣のような眼光。
その声に応え、作業着の少女——スエが地を蹴った。彼女の左腕は、肘から先が無骨な鉄の義手だ。機人のような洗練されたクロム合金ではない。重機の残骸を継ぎ接ぎしたような、油塗れの鉄塊。関節の隙間から漏れる青白い放電が、彼女の焦燥を物語っている。その鉄の拳が、飛来するボールを「捕球」せず、破壊的な勢いで殴りつけた。
だが、衝撃の瞬間、ボールに加えられた不規則な順回転が義手の受領面を滑った。
\vec{V}(速度)と$\omega$(角速度)の不一致。
制御を失った黒い弾丸が、物理法則に従って、扉の隙間に立つしょうたの眉間へと爆ぜた。
逃げる時間は、ない。
死を覚悟した瞬間、しょうたの脳内で、深夜の路地裏で培ったシミュレーションが限界速度で起動した。
(入射角、十五度。回転軸は中心から右へ三・二ミリ……。面で殺すな、線で奪え!)
世界が薄く引き伸ばされ、スローモーションに沈む。ボールを包むゴムの継ぎ目、空気の剥離、そのすべてが「数式」として網膜に焼き付く。
しょうたは左足を一歩引き、右腕を突き出した。それは打撃ではなく、猛スピードで走る列車に手を添えるような、極めて精密な「接触」だった。
ガァァァンッ!
掌の皮が、摩擦熱で一瞬にして焼き切れる。
だが、しょうたはボールの勢いに逆らわなかった。自らの体幹を軸にし、ボールの持つ運動エネルギーを円運動へと変換させる。
遠心力が腕を千切らんばかりに引き絞る。骨が軋む音を無視し、彼はその「回転」を逆向きに上書きして解き放った。
放たれたカウンターは、鉄の義手よりも鋭い放物線を描き——
中心に立つ男の、その喉元数センチを真空に焦がして、男の掌中へと吸い込まれた。
「…………」
体育館の空気が凍りついた。
義手の少女・スエ。重機のような体躯の巨漢。データ端末の光に顔を半分沈めた男。
最底辺で生きる「亡者」たちの視線が、扉の隙間で肩を上下させる、痩せこけた少年に突き刺さる。
男がゆっくりと、熱を持ったボールを握りしめる。
「……生身の反射じゃねえ。ベクトルを読みやがったか」
男はしょうたの、今にも潰れそうな肺の音を値踏みするように見据え、ふっ、と短く嗤った。
「入れ、ガキ。ここは——」
男の口の端が、鋭利な刃物のように吊り上がる。
「世界に捨てられた欠陥品が、神の並べた盤面をひっくり返すための場所だ」
しょうたは、痺れる右手をゆっくりと開いた。
皮膚は裂け、血が滴っている。
だが、その激痛は、上層の眩しさに焦がれるだけの昨日までとは違う、確かな「生」の証だった。
スクリーンの中の偽物じゃない。本物の「赤」が、今、自分の掌を濡らしている。
「……やってやる」
血の滲む拳を握り直し、少年は短く、不敵に笑った。
「俺の肺が、焼き切れるのが先か。あんたらの『退屈』をぶち壊すのが先か……勝負だ」
少年の宣戦布告に、廃墟の温度が一段と跳ね上がった。
亡者たちが嗤う。それは歓迎でも、嘲りでもなかった。同じ地獄の底から、天を撃ち抜こうとする共犯者の合図だった。
しょうたは、まだ知らない。
この瓦礫のチームが、上層の秩序を根底から揺るがす「禁忌の技術」を隠し持っていることを。
そして、自分の血に眠る父の遺産が、最下層の「数式」を「神話」へと書き換えるトリガーになることを。




