第1話:三一〇〇年の落第者
西暦三一〇〇年。多層都市〈ミドルシティ〉は、重力に逆らうように富を積み上げ、その影として最下層〈スラム〉を産み落とした。
空を塞ぐ高架道路は、上層の贅を運ぶ大動脈だ。そこから滴り落ちる汚染水と排熱の混濁が、この街の呼吸を司っている。
人々の肺はナノマシンの煤に侵され、吐き出す息は常に錆びた鉄の味がした。
頭上の巨大ホロ・スクリーンには、別世界の神話が映し出されている。
一部リーグ〈ハイ・スフィア〉。全身をクロム合金の装甲で包んだ機人たちが、時速三百キロを超える弾丸——『レッド・スフィア』を、火花とともに叩き伏せていた。
衝撃波がスタジアムの強化ガラスを震わせ、数万人の狂騒が地鳴りとなって下層へ降り注ぐ。
「……左足の駆動モーター、〇・二秒の遅延」
十五歳のショウタは、廃品を積んだ台車を止め、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼の瞳は、常人には光の尾にしか見えないボールの回転を、残酷なまでに正確に捉えていた。関節の駆動角、空気抵抗、予測される着弾点。それらすべてが、飢えで研ぎ澄まされた脳内で、冷徹な数式へと変換されていく。
「……っ、ゲホッ、……ハッ、ガッ」
突如、肺を焼くような発作が計算を中断させた。
膝を突き、油にまみれた路面を掴む。視界が白く濁る。
「どけ、クズが! 轢かれたいのか!」
配送車の荒いクラクションが耳を劈き、泥水が頬を叩いた。ショウタは動かない。ただ、泥の中に沈みかけていた一枚の十クレジット硬貨を、震える指で拾い上げた。
帰宅したアパートは、湿った沈黙に支配されていた。
点滅を繰り返す室内灯が、ベッドで横たわる母の、透き通るほど白い肌を照らし出す。
「母さん、薬……手に入ったよ」
嘘だ。今日稼いだ端金では、まともな肺洗浄剤など買えはしない。
母の痩せこけた指が、ショウタの頬に触れた。熱を失った氷のような冷たさ。
(——このまま、終わらせてたまるか)
テーブルの上には、無慈悲な督促状の山。かつて父がプロ・ドッヂの三軍選手だったという事実は、今や重い負債と、ショウタの血管を流れる呪われた才能だけを遺して消えた。
(機械化さえできれば、母さんを救える。でも……)
生身が機人に挑むなど、この時代の常識が許さない。だが、ショウタの胸の内で燻る火は、絶望を燃料にして青白く燃え上がっていた。
深夜。ショウタは一人、街灯の死んだ路地裏に立っていた。
左手には、昼間拾った十クレジット硬貨。
彼は深く、長く、痛む肺に泥のような空気を流し込んだ。
意識が周囲の雑音を遮断し、世界がモノクロへと変色する。
標的は三十メートル先。上層の公社が捨てた、厚さ三センチの強化樹脂ドラム缶。
——見ろ。風向、湿度、指先の摩擦係数。
——掴め。機人の、あの無駄のない「赤」の軌跡を。
一歩。踏み込んだ足がヘドロを爆ぜさせる。
背骨が軋み、肩の筋肉が悲鳴を上げた。だが、彼の右腕は、限界を超えた加速でしなる鞭へと化した。
カッ!
空気が裂ける高周波。
硬貨は、夜の闇を物理的に抉り取った。
激しい衝撃音の直後、ドラム缶の芯に、完全な円形の穴が穿たれていた。
背後に跳ね返った音はない。硬貨は樹脂を貫通し、その先のコンクリート壁に食い込んでいた。
「……はぁ、はぁっ……!」
ショウタは崩れ落ち、激しく血を吐いた。右腕の皮膚は裂け、毛細血管が破裂してどす黒く変色している。
激痛に耐えながら、少年は血に濡れた口角を吊り上げた。
その瞳には、スクリーンの中のスターたちを凍り付かせるような、昏い「狂気」が宿っている。
「待ってろよ、雲の上の連中」
血の混じった唾を吐き捨て、彼は誰にともなく宣言した。
「——俺の『赤』は、あんなに甘くない」
頭上では、相変わらず高架道路が唸りを上げている。
支配者たちはまだ知らない。
最下層の泥の中から、彼らの完璧なシステムを破壊する、一発の「弾丸」が放たれたことを。




