第54話:左利きの記憶(1)
試合終了まで、残り百六十秒。
ドバイ・ナショナル・スタジアムを支配していた砂漠の熱気は、今、マウンド中央に立ち尽くす二人の「左利き」の周囲だけで、時間が凍りついたかのように静止していた。
「……行け、ショウタ。お前が、あの完璧な円環を断ち切る『バグ』になれ」
工藤の、祈りにも似た絞り出すような声に背を押され、ショウタは死の気配が漂うマウンドへ一歩を踏み出した。
残存ライフ、わずか「15」。かすり傷一つが即座に「死」へと直結する、あまりに脆く薄氷の舞台。
真正面に立つ、エンドウ・ケンジ。彼がその漆黒の左腕を、物理法則をねじ伏せるように引き絞った瞬間、ショウタの視界は真っ白なノイズによって無残に塗りつぶされた。
(――嘘だろ……。肩の引き込み、肘の角度、リリースの直前に指先が奏でる微かな震えまで。……全部、僕と同じじゃないか)
アリーナを覆う巨大な多重モニターに映し出される、二人の残像。それは、逃げ場のない鏡合わせの悪夢だった。
ショウタが下層の錆びた体育館で、母を、自分を、未来を護るために、己の身を削り、喘鳴を吐き出しながら築き上げてきたはずの「自分だけのフォーム」。それが今、軍事規格の鉄とクロムを纏った男によって、より完璧な、より残酷な「起源」として冷徹に体現されていた。
「血の証明」。
スエがかつて指摘したあの「癖」は、誇るべき個性などではなかった。
自分という存在は、十年前に自分をゴミのように捨てた男の、劣化した「コピー(型落ち)」に過ぎなかったのか。
「ヒュー……、ヒュー……」
肺が鳴る。だが、今回の発作は「時計」を刻まない。
自分の存在意義が足元から音を立てて崩壊していく、精神的な窒息。
ケンジの赤い光学レンズが、不気味な一定周期で、ショウタの絶望を演算するように明滅する。
「……お前の挙動の全ては、既に私の一次メモリの中にある。……次の一投。お前は、私と同じ座標へ、同じ慣性回転を投げ込む」
人工喉頭が合成した、鉄と鉄を擦り合わせたような父の声。
それは、ショウタがこれから歩むはずの全ての可能性さえも、既に「既読のデータ」としてパージする、神の如き絶対的な宣告だった。
ショウタの左腕が、自らの意志を拒絶するように、ガタガタと無様に震え始める。
起源を前にした、劣悪な模倣品の根源的な恐怖。野良犬たちが命を削って積み上げてきた「不合理な絆」さえも、この「血の呪縛」という圧倒的な理の前には無力なのか。
絶望がドーム全体を塗り潰し、審判のホイッスルが処刑の合図に変わろうとしたその時――。
「……ショウタ。……前を見ろ。目を開けて、その『血』を笑ってやれ」
外野へ運ばれたはずの、清盛の掠れた、だが岩のように揺るぎない声が、地を這うように響いた。




