第36話:審判が敵になる(2)
ヘリオス・ドーム。十二万人の視線が、一人の「下層のデータ狂」の指先に釘付けになっていた。
「……異議申し立て(プロテスト)の内容を、再度確認しますか?」
工藤は、主審ヒギンズが発する「退場処分」の威嚇を、薄笑い一つで受け流した。
「ヒギンズ主審。あなたの過去三試合における判定の、イギリス代表への『親和性係数』を算出しました。……偏り、実に一四・八%。この数値を侮辱と呼びたければ、どうぞ私をマウンドから追放してください。ですが、このデータは既に世界八十カ国の放送ネットワークにリアルタイムで同期されています。……あなたが次に吹く笛の音が、『正義』か『忖度』か。一億人の視聴者が、あなたの指先を凝視しているんですよ」
ヒギンズの喉仏が、見苦しく跳ねた。高潔なイギリス紳士としての自尊心が、剥き出しの統計データという名の汚物によって、全世界の面前で塗り潰された瞬間だった。
アリーナを包んでいた「騎士道」への心酔が、ドロリとした「懐疑」へと変貌していく。
「……プレー、再開。……審判の、権限において」
ヒギンズが絞り出した声には、もはや世界を支配していた絶対的な重みは残っていなかった。
「……おう、お膳立ては十分だぜ。……見てな、クソ審判」
タイシの右腕。重加速カウルが、限界を告げる紅い排気光を放つ。『1ミニッツ・パワー』。だが、今の彼の全身を流れる熱は、単なる暴発ではない。
(――ファールなんざ、一ミリも踏ませねえよ。俺の『拳』は、お前の汚ねえ物差しを、ロジックごと粉砕してやる!)
タイシが跳んだ。
イギリス代表のジェリーが放った、軌道修正機能付きの『ロングシュート』。その弾道を、タイシは空中の一点で迎え撃つ。
本来なら「危険な接触」の判定を受けかねない高高度。だがタイシは、右拳を突き出す瞬間にカウルの出力をコンマ単位で微調整し、拳の側面でボールの「中心から三ミリ下」を掠めるように弾き飛ばした。
指の骨が折れる鈍い音。だが、その代償として生み出された軌道は、まさに芸術。
放たれた球は、イギリスの主将コンスタントの顔面を完璧に回避し、彼の白銀のユニフォームに刻まれた「国旗の刺繍」だけを、文字通り削り取って貫通した。
【コンスタント HP:280 → 40 / 判定:クリーン・ヒット】
ヒギンズは、ホイッスルを唇に押し当てたまま、硬直していた。
反則だと言いたい。だが、タイシの技術は、ヒギンズが張り巡らせた「主観の網」を、文字通り物理法則の隙間を通して潜り抜けていた。
「……どうした、主審? 笛を吹けよ。それとも、まだ計算(忖度)が合わないか?」
タイシが不敵に笑い、砕けた右指から滴る血をコートに振り払う。
観客席のブーイングは、いつの間にか「日本代表」への——否、どこまでも不条理なシステムに抗い続ける**『ストリートドッグス』**への、地鳴りのような熱狂へと書き換えられていた。
「神崎、トキ、ショウタ! 判定の『檻』は、タイシの拳がぶち壊したぞ!」
清盛の咆哮が飛ぶ。
神崎レンが、鏡面仕上げの義腕から熱の蒸気を噴き出し、冷徹な勝利へのアルゴリズムを再構成する。
ショウタは、激しく痺れる左手を、折れそうなほど強く握り締めた。
審判の「目」は、もう敵ではない。
だが、その視線の先。コンスタントの瞳から「紳士の余裕」が消え、血の通わない戦闘機械の冷徹さが、静かに、しかし確実に露わになろうとしていた。




