第30話:出発前夜
ドバイ出発の三日前。
『ストリートドッグス』の面々が集まる朝食の席に、冷たい潮風のような一通の電子通告が届いた。
工藤の声が、無機質な食堂の空気に重く沈み込む。
「……スエ。国際連盟(IDF)から、特例枠の承認が下りた。だが、それは勝利への片道切符ではない」
【IDF特例措置承認:JPN-Suuh-001】
条件:『無国籍選手(Stateless Player)』としての登録。
制限:ユニフォームへの一切の国旗貼付を禁ずる。表彰式、国歌斉唱、公式セレモニーへの自国代表としての参加を一切認めない。メダル授与は閉会後の事務局にて行う。
「……透明人間扱いじゃねえか。ふざけんなよ! 同じコートで血を流す仲間だろ!」
タイシが拳をテーブルに叩きつけ、重加速カウルが火花を散らす。だが、当のスエは、感情を演算から切り離した瞳で自分の銀色の義腕を見つめ、静かに、しかし鋼のような硬度で言い放った。
「……受け入れる。私が求めているのは、安っぽい刺繍の重みではない。マウンドに立ち、投球を『現象』として刻む権利だ。その場所が地獄の底であろうと、私には関係ない」
それは、誰にも与えられなかった「居場所」を、自らの義腕で毟り取ってきた野良犬の、孤高なる矜持だった。
出発の朝。チャーター機が、ミドルシティの濁ったオレンジ色の「蓋」を突き抜け、眩暈のするような「本当の青空」へと急上昇を開始した。
窓の下、かつて自分を閉じ込めていた街が、砂粒のように小さくなっていく。ショウタは、安宿に残してきた母の、呼吸を繋ぎ止めるための月額百二十万という数字を思い出しながら、その青さに目を細めた。
「ドバイ・ナショナル・スタジアム。総工費一兆クレジット。……神々の解体場としては、妥当な建築費用だな」
工藤が投射したホログラムには、砂漠の熱砂の中に咲いた、鋼鉄の蓮華のような十二万人収容の巨大な断頭台が映し出されていた。
ドバイ国際空港へ降り立った瞬間、ショウタを襲ったのは、廃熱と砂が混じった五十度の熱気と、圧倒的な「世界の質量」だった。
通路の向こう、アメリカ代表の巨漢たちが、重戦車のような重厚な駆動音を響かせて闊歩する。イギリス代表の、解剖学的に研ぎ澄まされた機械化体が、精密時計のような歩行でこちらの視界を蹂躙する。
「驚いたか。……これが、世界基準だ。下層の泥仕合など、ここでは誤差ですらない」
神崎レンが、ショウタの傍らで冷たく言い放った。鏡面仕上げの義腕が、ドバイの強烈な太陽を乱反射させている。
「クロムキングスは、国内という小さな檻の王だった。だがここでは、上位二十パーセントの中堅種に過ぎない。……君のその生身の左腕、一戦目で爆ぜなければいいがな」
メインロビー。巨大なホログラム掲示板に、全二十四カ国の代表リストが、滝のような文字数で展開されていた。
ショウタは何気なく、そのデータの奔流に目を走らせた。
【RUSSIA:ロシア代表】
五人目のサムネイル。そこで、ショウタの血液が沸騰したあとに凍りついた。
【RUS-007 / ENDO KENJI / HP:750 / 全身換装率:99.8%】
顔の左半分を漆黒のクロム合金で覆い、左目に不気味な赤い走査レンズを嵌めた、四十代の男。
右半分の、わずかに人間としての肉を残したその顔の輪郭。口元の歪み。そして、投球練習で見せている、左肩をわずかに沈めて指先で大気を切る、あの独特な予備動作。
十年前。ボロボロの代表バッグをテーブルに置いたまま、嵐の夜に、僕たちの前から消えた男。
「遠藤、健司……」
名前を絞り出した瞬間、喉の奥から「ヒュー……」という、乾いた笛の音が漏れた。
それは、喘息の発作ではない。
「過去」という名の巨大な怪物が、ショウタの心臓を、その冷たい牙で噛み潰した戦慄の音だった。
HP750。全身換装率99.8%。ロシアの怪物。そして、自分を捨て、母を地獄に置き去りにした、僕の父親。
掲示板の眩い光の中で、赤いレンズが、ショウタの「不完全な生身」を値踏みするように見据えていた。
ショウタは、感覚を失った左手を、壊れるほど強く握り締めた。
あの時。親父は、僕たちよりも何を優先して、この鋼鉄の地獄へ旅立ったのか。
砂漠の熱風が、ドームの隙間から「復讐」と「再会」の血の匂いを運んでくる。
野良犬たちの世界戦。
その幕開けは、親子の絆という名の呪縛を、黒球で粉砕する戦いへと変貌しようとしていた。




