第28話:スエの壁
代表合宿三週目。
アッパーシティの滅菌された澄み渡る空気が、これほどまでに「冷徹な拒絶」に感じたことはなかった。
午前十時。練習開始直前、工藤のウォッチが、断末魔のような鋭い警告音を鳴り響かせた。
「……スエ。動きを止めろ。演算が、最悪の結果を弾き出した」
工藤の声には、絶対零度の静寂が沈んでいた。彼が空中に投射したのは、国際ドッヂボール連盟(IDF)から届いた、事実上の処刑宣告だった。
【IDF国際登録審査結果】
判定:登録却下(REJECTED)
理由:該当個体は『製造記録不在(Blank-Lot)』。現行の国籍アルゴリズムにおける脳紋同期(同期率0%)を確認。国際法上の『代表権』を充足せず。
ロッカールームの温度が、一瞬で凍土のそれへと変貌した。
「国籍……? ふざけんなよ! スエはここに立ってんだろ! 血だって流れてんだ!」
タイシが右腕の重加速カウルを床に叩きつけた。火花が散り、黒い作動油がタイルの上に無残な染みを作る。だが、その激昂さえも、IDFの冷たいテキストの前では空虚なノイズに過ぎなかった。
「……IDFの規定だ。世界戦は『国家の代理戦争』。ゆえに、シリアルコードという名の魂を持たない者は、マウンドに立つ権利すら与えられない」
工藤は、震える指で眼鏡を押し上げた。
「機械法と人間法の隙間に落ちた『エラー個体』。彼女は、この世界の地図には、最初から載っていないんだ」
ショウタは、スエを見た。
彼女はロッカーの前に座り、いつものように淡々と、義腕のジョイントを磨いていた。
「スエさん……」
「……来るな、ショウタ。バイタルが乱れる。……慣れてる。住居も、仕事も、保証も。私はこれまで、この『記録の不在』によって、何度も世界からデリートされてきた。代表権の剥奪は、ただの統計的な反復に過ぎない」
「慣れてる」
その三文字が、ショウタの肺を、喘息の発作以上に強く締め付けた。
彼女は怒ることさえ、演算で去勢された時間を生きてきたのだ。当たり前のように存在を抹消される日常。それに「適応」しなければ、彼女の生体ニューロンは、絶望で焼き切れていたに違いない。
ショウタは合宿の合間を縫って奔走した。一部リーグの覇者としての「発言力」を武器にしようとしたが、事務局の冷たい自動音声と、ボランティア弁護士の憐れみに満ちた視線が、彼を「下層の餓鬼」へと引き戻した。
「法改正を待つ間に、あなたの大会は終わる。彼女は『部品』であって、『国民』ではないんだよ、ショウタ君」
アッパーシティの夕焼けは、ミドルシティのそれよりも不自然に鮮やかで、そして残酷なほどに「境界線」を際立たせていた。
翌朝。ショウタは清盛と工藤の前に立ち、声を、魂を絞り出した。
「スエさんを……マネージャーとして同行させてください。選手として出られなくても、彼女は『ストリートドッグス』の副主将です」
清盛は、長く沈黙した。それから、体育館の隅で孤独に磨き上げられた銀色の義腕を見つめ、短く言った。
「……マネージャーとして、ドバイへ行く。お前の戦略眼を、俺たちはまだ必要としている。それで構わないか、スエ」
スエは立ち上がり、一点の迷いもなく頷いた。
「了解した。……私は、ここに残るという選択を、自ら上書きした。選手でなかろうと、私の『意志』は登録抹消できない。……ショウタ、ウォッチを差し出せ」
スエは工具を取り、ショウタのウォッチに「外部チューナー」を強引にバイパス接続した。
「練習を再開する。お前の『喘息のリズム』。私がコート外から、その周波数を増幅し、敵の演算をジャミングする戦術を構築してやる。……それが、私の新しい『仕様(役割)』だ」
神崎レンが、二人の横を無音で通り過ぎた。
鏡面仕上げの義腕に、ショウタたちの熱い影を一瞬だけ映し込み、「……論理的な効率を欠いた損失だ」とだけ残して。
ショウタは、痺れる左手を強く握り締めた。
スエは、マウンドには立てない。だが、彼女の「熱」はショウタの肺の中で脈動している。
世界が彼女を認めないのなら、その世界そのものを、この左腕の「ノイズ」で焼き切ってやる。
ドバイへのカウントダウンは、不条理の壁を燃料にして、さらに激しく、その炎を燃え上がらせ始めた。




