第26話:一部の先に
西暦三一〇一年、春。
ミドルシティの天を覆う濁ったオレンジ色の「蓋」が、ほんのわずかだけ、その色を薄めていた。
ショウタは、十六歳になった。
一部リーグ(ディビジョン・ワン)優勝。その伝説は、下層区の錆びた路地裏では、一晩の狂騒のあとの冷たい廃熱に過ぎなかった。九千万の賞金は、システムという名の巨大な胃袋を通り抜け、手元に残ったのはわずか九百万。母の命を、あと半年と少しだけ「現状維持」させるための、あまりに薄い、絶望的な延命の壁だった。
「……おう、あんた。ストリートドッグスの、あのガキだろ」
配送の途中。煤けた路地の影から現れた老人が、足を止めてショウタを見つめた。
汚れの目立つユニフォームに、安物の台車。だが老人は、かつて自分が持っていた唯一の尊厳を捧げるような、深い敬意を込めて笑った。
「ありがとうな、ショウタ。……俺たちの『野良犬』が、あのドームで神様連中の鉄面皮を叩き割った。……あれだけで、俺はあと十年、このクソみたいな煤を吸って生きていけるよ」
ショウタは何も言えず、老人の歪んだ背中を見送った。
吸入器をポケットの奥へ押し込んだあの日。自分たちは誰の代弁者でもなかった。ただ、今日を生き延びるために牙を剥いただけだった。なのに、その火花が、暗い下層の隅々で凍えていた亡者たちの心に、消えない灯をともしていた。
拠点の体育館の扉を開けると、そこには、次なる地獄が青白く脈動していた。
「……来たか、ショウタ。休息は終わりだ」
清盛の前に展開されたホログラムには、金箔を貼ったような豪奢なエンブレムが踊っている。
【WORLD CUP : KARAKURI-DODGEBALL 3101】
【Japan National Team : Official Invitation(日本代表・公式招待)】
「……ワールドカップ? 俺たちが、代表……?」
「ああ。優勝賞金、十億。だが、その七割はまた『協会』の修復費と放映権料に吸い上げられる」
工藤が、眼鏡の奥に、解析不能な情熱を宿して言った。
「俺たちの手元に残るのは、五千万。……母さんの治療費、一生分を一度に確定できる唯一のチャンスだ。ただし、代償は『時間』。ドバイでの三ヶ月に及ぶ集中合宿。その間、母さんをこの下層に独り残すことになる」
清盛の声が、重く、選別のように響いた。「決めるのは、お前だ」。
ショウタは、一千二百万という月の医療費と、母の「温かい手」の間で、天秤を揺らし続けた。
その夜。壊れかけたテレビのノイズが、静かな部屋に青い火花を撒き散らしていた。
『――続いて、ロシア代表のリストです。キャプテンは、不敗の機士、エンドウ・ケンジ』
母の薬剤を用意していたショウタの指が、凍りついた。
画面には、顔の左半分を漆黒のクロム合金で覆った、四十代の男。赤い光学レンズが、獲物を屠る瞬間の冷徹な殺意を放っている。
エンドウ・ケンジ。
どこにでもある名前。だが、その男が投球練習で見せた、左肩をわずかに沈め、指先で風をなぞる独特の予備動作。それは、ショウタが鏡の前で毎日繰り返してきた、あの呪わしい「癖」そのものだった。
「……似ているわね。あなたの、投げ方に」
母が、遠い過去の美しい悪夢を見るような目で呟いた。
ショウタは、押し入れの奥へ、狂ったように手を伸ばした。
十一年間、一度も開けることができなかった、父の遺したスポーツバッグ。
錆びついたジッパーを、爪が割れるほど強く引き裂く。
中から転がり落ちたのは、空気が抜け、黒カビにまみれた古いドッヂボール。そして——。
かつての「日本」を象徴する、日の丸の刺繍が施された、ボロボロの、血の匂いが染み付いた代表ユニフォームだった。
「……親父、なのか? 本当に……」
ミドルシティの夜風が、窓の隙間から「死の腐敗」と「新たな春の予感」を運んでくる。
ショウタはウォッチを起動し、承諾ボタンを、震える左手で――かつて父がボールを握ったのと同じ力で、強く押し込んだ。
野良犬は、もはや下層の檻には収まらない。
母を救うための三億を超え、父の背中を、世界の頂点を、そしてこの理不尽な運命の喉笛を。
そのすべてを喰らい尽くすための、世界戦が今、幕を開ける。




