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からくりドッヂボール  作者: 水前寺鯉太郎
リーグ編

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25/80

第25話:機械にならなかった理由

 ヘリオス・ドームを揺るがした熱狂から、一夜。

 ショウタは、昨日までの「天上」が、高熱が見せた白昼夢のように思える、湿った消毒液と煤の匂いが漂う下層公立病院の待合室にいた。

 蛍光灯の一本が、断末魔の羽音のようにチカチカと明滅している。隣では血を吐く老人が無視され、受付では母親が子供の投薬をクレジットの残高と引き換えに値切っている。八万人の咆哮を浴びた「英雄」が、また同じ、救いのない風景の中に座っていた。

 手首のウォッチが、無慈悲な電子音とともに「勝利の対価」を精算する。

 【入金:300,000,000 → 差引残高:12,000,000クレジット】

 三億という巨額は、システムという名の巨大な胃袋に九割以上を飲み込まれていた。

 一部リーグ運営協力金。勝利者プロモーション費。医療特別徴収税。下層民更生基金——名目を変えた、洗練された「略奪」。ショウタの掌に残ったのは、母を数ヶ月「延命」させるだけの、薄汚れた命の値段だった。

「……お母様のナノマシン汚染は、もはや薬物では堰き止められません」

 診察室。主治医の声は、感情の機能をオフにした自動音声のように冷え切っていた。

「月額百二十万の浄化プロトコルで、ようやく現状維持です。……根本的な解決を望むなら、肺の完全機械化トータル・リプレイスを推奨します。……お前さん、一部ワンを獲ったんだろう? 手元にそのくらいはあるはずだ」

 ショウタは、車椅子に座る母を見た。

 一千二百万。今の自分なら、母をこの「カミソリを飲み込むような苦しみ」から解放してやれる。母を機械に変えれば、彼女は二度と咳に震えることも、死の影に怯えることもなくなる。

 だが。

 ショウタが口を開くより早く、母の骨ばった指が息子の袖を掴んだ。

 その握力は、壊れた部品よりも弱々しい。だが、その意志は鋼鉄よりも鋭かった。

「……やめて、ショウタ。私を、あの人と同じにしないで」

 母の声は、ボロボロの肺を震わせた、透明な響きを帯びていた。

「お父さんはね、最後、笑わなくなったんじゃないの。……自分の演算を乱す『家族の声』を、アーカイブへ捨ててしまったのよ。私に最後に言ったわ。『君の呼吸は、出力のノイズだ』って。……あの日から、母さんは決めていたの。どんなに痛くても、この胸が熱いうちに死ぬって」

 ショウタは、言葉を失った。父が「蒸発した」のではない。機械化という「正解」の果てに、家族という「不正解」を削除したのだ。

 母の手が、ショウタの拳を包み込んだ。

 驚くほど痩せ細った、白い手。だが、そこには機械のヒーターでは決して再現できない、熱い、脈動する命の「熱」が宿っていた。第1話で思い出した「氷のような指」。それは病で冷えていただけで、本当はずっと、こんなに熱かったのだ。

「……分かったよ、母さん。……俺の稼いだ金は、母さんが母さんでいるために使う」

 ショウタは、迷いなくウォッチを操作した。

 【自動決済設定:最新浄化プロトコル/毎月1,200,000クレジット/継続確定】

 網膜に浮かんでいた「機人適性試験」の予約画面。ショウタはそれを、一欠片の未練もなく、ゴミ箱へと放り込んだ。第1話、汚れたアスファルトに膝をついた夜に憧れた「チタンの臓器」を、彼は今、自らの意志で破棄した。

 

 病院を出て見上げた、濁ったオレンジ色の空。

 上層区の眩しい光は、下層の煤に反射して、決して地上の闇を照らすことはない。

「……ヒュー……、ゲホッ」

 肺の奥から漏れる、いつもの不規則な喘鳴。

 だが、今の彼にはその音が誇らしかった。この醜い、管理不可能なノイズこそが、自分が母の子であり、一人の「野良犬ストリートドッグス」であることの、世界に一つだけの証明だったから。

 

 同時刻、ベクター・アリーナ。

 敗北した絶対王者、セラのクロムの指先が、激しく震えていた。

 

 昨夜、あの少年が放った、不完全ゆえの歪な軌道。

 その映像を、彼女のシステムは無限に再生し、最適化の不備を計算し続けていた。

 だが。

「……っ、あ……」

 セラが左手でボールを引いた瞬間、クロムの肌の内側で、あり得ない「高周波」が走った。

 それは最適化プロトコルが「無駄」として圧縮したはずの、古い記憶の熱。

 

 【警告:神経伝達プロトコルに未定義の異常。強制再起動を推奨します】

 

 視界を赤く染める警告を、セラは無視した。感情は、彼女の機械の体を内部から焼き切ろうとしている。それでも。

 彼女のレンズから、一滴のオイル——否、煮えたぎるほど熱い「涙」が、コートの床へ零れ落ちた。

 自分は何かを失ったのではない。自分は、この「痛み」を、自ら売り払ってしまったのだ。その能動的な罪悪感ノイズこそが、彼女にとっての「生」の再起動だった。

「……まだ、消えてなかったのね。……不完全な、私の名前が」

 

 セラは震える左手を、激しく駆動する冷却ファンの上に押し当てた。

 野良犬の一撃が、鋼鉄の神殿を内部から溶解させ始めていた。

 

 地獄の頂点戦は終わった。

 だが、野良犬ストリートドッグスの、そして鋼鉄を捨て始めた者たちの、本当の「反逆」は、この暗い夜の中から、静かに加速していく。

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