第23話:吸入器を置く
試合時間、残り九十秒。
〈ヘリオス・ドーム〉の滅菌された静寂の中に、一筋の、醜くも鋭い不協和音が響き始めた。
ショウタの肺が奏でる、重度の喘息による喘鳴。八万人の観客は、最初それが何の音か理解できなかった。最新鋭の空調の故障か、あるいは超伝導回路の放電音か——。やがて、それがコート中央に立つ痩せこけた少年の「呼吸」だと気づいた時、アリーナを氷のような戦慄が駆け抜けた。
【ストリートドッグス:395 vs クロムキングス:2450】
【ショウタ LIFE:73 / STATUS:CRITICAL ASTHMA(警告:気道閉塞まで110秒)】
肺の奥が、熱した鉛を流し込まれたようにドロリと焼ける。視界の端がオレンジ色に点滅し、酸素を拒絶する心臓が、肋骨を内側から叩き壊さんばかりに暴動を起こしている。
ショウタは反射的に、ユニフォームのポケットに指を滑り込ませた。
使い古された、プラスチックの吸入器。
これを口に当て、薬剤を流し込めば、この灼熱は数秒で「管理」される。母のために、そしてこの街のシステムに適合するために持ち歩いてきた、生存という名の「首輪」。
指先が、その冷たいプラスチックの感触を捉える。路地裏から今日まで、彼を「部品」として生かし続けてきた唯一の友。
だが、ショウタの指は、それを引き抜かなかった。
(——二択に、お前の魂を売るな)
昨夜の屋上、スエが残した言葉が、脳内で閃光となって爆ぜる。
「……首輪を付けたまま、お前たちに、勝てるわけがないんだ」
ショウタは吸入器を、ポケットの奥底へと強く押し戻した。それは、彼が自分という「不規則な命」に下した、最初で最後の処方箋だった。
「ヒュー……、ヒューッ……、ヒュー……!」
抑えることを放棄した発作が、コート全体に「命の不協和音」を撒き散らす。それは、洗練された機人たちの完璧な駆動音を汚染する、耐えがたい生理的なノイズだ。
「……標的、予測モデルからの逸脱を確認。再演算——不能」
ゼロの無機質なレンズが、激しく明滅する。
ゼロの演算回路は、目の前の標本が「なぜ生存に必要な処置を能動的に放棄したのか」という問いに対し、論理的な回答を見出せずにいた。データベースに存在する一億のログの中に、自らの死期を戦略的に早める選手の事例など、一件も存在しない。
(……ノイズじゃない。これは、僕だけのビートだ)
ショウタは、自身の肺が刻む「崩壊」のリズムに、全身の神経を同期させた。
三拍。吸って、吐いて、激しく震える。それはもはやスポーツの動作ではない。母の冷たい指先が削り取られていく秒針の音、山田の血で温かかった拳の鼓動、清盛が絞り出した最後の一呼吸——それらすべてを束ねた、生命そのものの拍動。
ゼロが放った、時速二百八十七キロの「絶対的な直線」。
ショウタは、喘鳴が一拍強くなる瞬間に合わせ、物理法則を無視した角度で体を沈めた。
ボールが、髪の毛一筋を焼いて通り過ぎる。
「躱した……!? ゼロの最短経路を、生身で!」
八万人の観客が、断頭台から身を乗り出すように総立ちとなった。下層席の怒号は、今や上層の特別席までを呑み込む、巨大なうねりへと変貌していた。賭けの配当金ではなく、目の前で起きている「神の演算への冒涜」に、観衆は本能的な戦慄を覚えていた。
それは計算による回避ではない。自らの「バグ」を、回避のトリガーへと転換した、狂気の最適解。
「サクラ、今だ!」
「……同期してるわよ、あんたの地獄と!」
サクラが自分のウォッチの周波数を、ショウタの心拍音に強制リンクさせた。彼女の耳元で鳴り響く、ショウタの焼けるような喘鳴。それが彼女にとっての、唯一無二の「パスの拍子」となる。
サクラが放った黒球が、ショウタの左手に吸い込まれた。掌を焼き、指の骨を軋ませる衝撃。だが今の彼には、その激痛こそが「自分がここに立っている」という唯一の感触だった。
ヒュー、という笛の音が、大気を引き裂く最高周波に達する。
ショウタは左足を一歩、ヘドロを蹴り上げるように強く踏み込んだ。
「——これが、野良犬の、呼吸だあぁぁっ!」
放たれた最後の一投。
それは、三部リーグの泥を吸い、二部リーグの鋼鉄を穿ち、一部リーグの「完璧」を殺すための、歪なシュート回転。
喘息の震えが、ボールに「不規則な超振動」を上書きし、空気抵抗さえも味方につけて蛇のようにうねる。
ゼロの迎撃プログラムが「着弾点不明」の警告を出し、彼が腕を上げるより早く——ボールはゼロの胸部装甲、その「共振点」へと正確に突き刺さった。
ドォォォォンッ!
「……エラー。因果律の……再構成、不可能」
無敵の機士ゼロが、衝撃に耐えきれず、コートの床に深い轍を刻みながら後退した。彼の人工声帯が、初めて「エラー」という単語を、自身の限界として吐き出した。
【ZERO LIFE:500 → 470 / 装甲値、大幅減少】
削れた数値は、わずか三十。
だが、ヘリオス・ドームを揺るがしたのは、システムの敗北を予感させる、地鳴りのような咆哮だった。
「あいつ……自分の病気さえ、エンジンにしやがった」
ベンチでタイシが、千切れそうな右腕を握りしめて笑う。清盛は震える手で目元を覆い、自らが信じた「ノイズ」の正しさに、言葉を失っていた。スエは無言で、自分の義腕の駆動音を最大まで上げた。それは、彼女が彼に贈った「第三の道」が、アリーナの空気を焼き切ったことへの、誇り高き沈鳴だった。
ショウタは、血の混じった黒い息を吐き捨て、次のボールを睨みつけた。
吸入器は、もういらない。
この焼ける肺こそが、世界をバグらせる、僕だけの唯一の心臓だ。
残り時間、六十秒。
野良犬たちの、神殺しの時間が、今、最高潮へと加速する。




