第19話:セラという鏡
一部初戦、二日前。
ミドルシティ最高層に君臨する〈クロム・ドーム〉は、太陽光さえもメタルコープ社のロゴを象った特殊プリズムで濾過された、滅菌された眩しさに満ちていた。
ショウタは、公開練習場の最上段で、独りその静寂に耐えていた。
下層の泥臭い熱狂とは無縁の、過剰なまでに清潔な空間。空調は一定の温度と酸素濃度を保ち続け、ショウタの不規則な喘鳴だけが、処理すべきノイズのように響いていた。
そこでは覇者〈クロムキングス〉が、精密なクロックに基づいた「演算の舞」を披露していた。投球の軌道がホログラムで弾けるたびに、アリーナには拍手ではなく、データの更新を告げる電子音だけが鳴る。
練習が終わり、照明が意図的に落とされた後。
コート中央に、一人だけ取り残された「最高級部品」がいた。
セラ。
全身の九十八パーセントをクロム合金へ換装した、メタルコープ社の最高傑作。
彼女は何も置かれていない床を、幽霊のように彷徨っていた。何かを拾おうとして、あるいは誰かの痕跡を確かめようとして、その目的そのものを失念した——そんな、システムエラーのような仕草で。
「……何か、落とし物ですか」
ショウタの声に、セラは慣性を感じさせない滑らかさで振り返った。
その貌は、人類の黄金比をアルゴリズムで再現した完璧な美。だが、網膜の奥に灯る青い光は、深い霧の底で救助を待つ遭難者のように、微かに揺れていた。
「……ストリートドッグスの、ショウタ。君のバイオ・データは、すでにインポート済みよ」
感情の機能を去勢されたはずの声帯から、予期せぬ揺らぎを孕んだ声が漏れる。
「実物の心拍音は、データよりもずっと『騒がしい』のね。汚染物質を吐き出すその音、システムログにはない不快な共鳴だわ」
彼女が無音で近づく。磨き抜かれたクロムの肌が、アリーナの影を鏡のように反射した。その頬に、ショウタの痩せた輪郭が、解像度の低いワイヤーフレームのように映り込む。
「……何を探していたのか、私自身のメモリにも残っていない。でも、マウンドに立つと、右手の指先が勝手に動くの。……昔、ここにあった『何か』を思い出そうとして」
セラは、白磁のような左手を掲げた。
「私は、左利きだった。……でも、移植時の最適化プロトコルで矯正されたわ。今の私は、左右どちらでも誤差零パーセントで標的を粉砕できる。……それが、商品としての『正解』だから」
彼女が指を曲げる。関節の駆動音すらしない。あまりに静止に近い動作。
「でも、思い出せないの。かつて指先にあった『痛み』や『手応え』が、どんな色をしていたか。……データには『衝撃:120キロ』とある。でも、感触が……アーカイブから消えている」
ショウタは、自分の左手を強く握り締めた。
そこには三部で掌を焼き、二部でアーム・リグの熱に耐えた、あの泥臭い感覚がまだ芯となって残っている。タイシがカウルを床に叩きつけた時の轟音、清盛が壁に刻んだ指の跡——。
「……機械になると、全部アーカイブにされちゃうんですか。……その熱さも」
「日常生活には不要なノイズよ。……でも私は、毎日ここでそれを探している。自分が何を捨てたのかすら、分からないままに」
セラの背後。壁一面に、彼女が微笑む巨大なホログラム広告が投影された。
『未来をその手に。メタルコープ・機体換装プロトコル。』
広告の中で完璧に笑う「商品」のセラと、目の前で自分の喪失に震えている「部品」のセラ。一人は崇拝の対象として量産され、一人は誰にも気づかれずに壊れかけている。
ショウタは、胸の奥を鋭いカミソリで刺されたような感覚を覚えた。
自分が母を救うために追い求めていた「完璧」の果てが、この、美しき迷子なのか。
「……ショウタ。君の左手は、まだ熱い?」
セラが右手を差し出した。触れることはない。十センチの距離を保ったまま、指先が空中で停止する。だが、そこから伝わってくるのは、絶対零度の冷気と、温度という概念そのものの欠落だった。
「……もし、その熱を捨てたいのなら、この一部は最高の場所よ。……ここは、すべてをクレジットと演算に換えて、自分を綺麗に消去するための、巨大な焼却炉だから」
アリーナを出た時、ミドルシティの空は濁ったオレンジ色の蓋を閉じていた。
母の延命、一億二千万。一部リーグの王座。
天秤の皿は、さらに激しく、歪に揺れ始めていた。
機械になれば、救える命がある。
だが、機械になれば、救いたかった「自分」が消失する。
「……ヒュー……、ガッ、ハッ……!」
激しい喘鳴がショウタを襲い、彼は汚れたアスファルトに膝をついた。
吸入器を口に押し当て、肺を刺すような苦い薬剤を流し込む。
冷たく、苦い、痛み。
それは皮肉にも、彼がまだ「生身の不規則さ」の中にいるという、唯一の証明だった。セラがどれほど願っても、もう二度と取り戻せない種類の感覚。
「……それでも、勝つ。……俺のやり方で、その三億、毟り獲ってやる」
少年の決意に呼応するように、重い酸性雨を孕んだ夜風が吹いた。
野良犬たちの、最後にして最大の「反逆」が、静かに幕を開けようとしていた。




