第20話:スエの過去
一部開幕、前夜。
〈ストリートドッグス〉が身を寄せる安宿の屋上は、下層区特有の、腐った油と錆の匂いを孕んだ夜風が絶え間なく吹き抜けていた。
ショウタは鉄柵を握りしめ、濁ったオレンジ色の「蓋」を見上げていた。脳裏ではセラの冷たい言葉が、故障寸前のサーバーが発する異音のようにリピートされ続けている。
(——機械になれば、この熱を消去できる)
三億クレジットの賞金。母の残存猶予。完璧な鋼鉄の牙。
答えを演算しようとするほど、肺の奥でナノマシンの煤が結晶化し、気管をカミソリで削り取るような喘鳴が漏れる。ウォッチが「心拍数異常:精神安定剤の投与を推奨」という青白い警告を網膜に投げつけるが、ショウタはそれを舌打ちとともにスワイプして消した。
「……バイタルは嘘をつけないな。お前の『生』というノイズは、今夜も騒がしい」
背後から響く、冷徹な低周波の声。
スエが、月明かりの下で腰を下ろしていた。彼女は銀色の義腕を膝に置き、精密ドライバーで肘関節のボルトを締め直している。
ジッ、ジッ、という一ミリの狂いもない駆動音が、夜の静寂を刻む。屋上で見た光景の反復。だが、ボルトを締める彼女の指先は、ショウタの「不規則な鼓動」を確かに観測していた。
「スエさん……。機械になることは、自分を殺すことなんですか」
スエは手を止めなかった。ボルトを一本、トルクの限界まで締め終えてから、ゆっくりと視線を上げた。
「捨てられる自分があるなら、それは贅沢というものだ」
彼女の瞳は、感情をバイナリデータへ変換したような特有の虚無を湛えていた。スエは、義腕の内側に刻印された、ひどく歪んだ認識番号を指でなぞった。文字の途中で工具が滑ったような、判読不能の傷跡。
「私には、出生ログがない。工場の廃棄リストにも、私のシリアルに紐付く出荷記録は存在しない。……私は、ラインから弾かれた瞬間に、存在そのものを『無』としてフォーマットされた個体だ」
ショウタは、息を呑むことさえ忘れた。
「私の脳には、名もなき人間の細胞から培養されたニューロンがプラグインされている。だが、その素体が誰なのか、記録はどこにもない。時折、夢を見る。嗅いだことのない料理の匂いや、誰かの母親らしき女の掌の温度……。だが、それが自分の記憶なのか、培養元の他人の『ゴミ』なのか、私には判別する術がない。私は誰かの記憶の残滓を抱えたまま、誰でもないエラーとして、廃棄物処理場で目覚めた」
スエは、月光を反射する銀色の義腕を掲げた。それは、あまりに機能美に満ちた、美しき凶器。
「人間は、自分が何者であるかを『過去』というログに求める。機械は、『仕様書』という設計図に求める。……私には、そのどちらもない。国籍も、設計図さえも。私はどのカテゴリにも属さない、ただのバグだ」
「……それでも、スエさんは、ここで生きている」
「ああ。答えがないなら、自分で書き込むしかないからだ」
スエは初めて、ショウタの目を射抜くように見据えた。それは「観測」ではなく、魂をぶつけ合う「対話」の視線だった。
「私は清盛の副官であり、お前の仲間だ。そして、どこにも居場所のない野良犬だ。……それが、私が自分で選び、私という存在に付けた唯一の『属性』だ。他人に貼られたラベルなど、このボルト一本の質量にも満たない」
ショウタは、自分の左手を強く握り締めた。
生身という制約。喘息という欠陥。下層民という烙印。それらはすべて、この街のシステムが効率的に自分を管理するために与えた「仕様書」に過ぎなかった。
セラは「喪失」を嘆いていた。だが、スエは「ゼロ」から、自分の意志で自分という部品を組み上げたのだ。
「お前は、お前が何者であるかを、明日、その腕が描く軌道で証明すればいい」
スエは立ち上がり、義腕を重厚な接合音とともにロックした。
「機械になるか、生身で死ぬか。……そんな、他人が用意した安い二択に、お前の熱を売り渡すな」
その言葉が、ショウタの中で澱んでいた「恐怖」を、一瞬で蒸発させた。
機械化への誘惑でも、生身への執着でもない。どちらでもない「第三の極致」へ。
その時。
アリーナの方角から、一部リーグ開幕を告げる地鳴りのような重低音が響いた。
最高層に座す鋼鉄の怪物たちが、その非情な瞳を開く合図。
「行くぞ、ショウタ。……俺たちは、世界に捨てられたからこそ、最強の不規則性になれる」
スエの背中を見送りながら、ショウタは深く、長く、痛む肺の奥まで空気を吸い込んだ。
肺の奥は、まだカミソリで刻まれるように熱い。
だが、その熱は、もはや彼を怯えさせるものではなかった。それは、彼が一部リーグという地獄で、神々の計算を狂わせるための、唯一の「自分」という証だった。
夜明けまで、あと数時間。
野良犬たちの、世界を震撼させる最初の咆哮が、今、静寂の中で解き放たれようとしていた。




