第17話:揺らいだ憧れ
〈ベクター・アリーナ〉。二部リーグ最終戦を告げる電子ホイッスルが、観客の絶叫に掻き消された。
だが、その音は〈ストリートドッグス〉の五人にとって、もはや凱歌ですらなかった。一万二千人の狂乱の中で、彼らだけが、肺の奥からせり上がる血の混じった呼吸を、ただ静かに噛み締めていた。
アイアンクロウという巨大な「演算の壁」を突き崩したあの日から、彼らの戦い方は変容していた。完璧なデータ、完璧な出力。それらを「生身のノイズ」で汚し、狂わせ、食い破る。二部の他のチームは、その変則的な牙の前に、システムごと沈んでいった。
【WINNER:STREET DOGS】
【Division 2 — CLEARED】
【Next Stage:Division 1 — Unrestricted Class(無差別級)への昇格が確定しました】
工藤のウォッチが、次なる地獄の入り口を青白く映し出す。
「……優勝賞金、三億クレジットか。上層区の連中が、自分たちの退屈を埋めるために積み上げた、文字通り『血の代価』だな」
工藤がホログラムを閉じると、ロッカールームには、勝利の熱狂とは無縁の冷たい沈黙が降りた。誰一人、ガッツポーズをしない。誰一人、笑わない。次の戦場——「人間」であることが失格条件と言われる無差別級の影が、すでに彼らの首筋を凍らせていた。
ショウタは、湿ったベンチに座り、自分の震える左手を見つめていた。
二部を勝ち抜く過程で、彼は無数の機械化選手を見てきた。カイン、ミライ、ジオ……。彼らは美しく、速く、強かった。だが、その瞳の奥には、常に冷徹な「空虚」が、プログラムのゴミのように居座っていた。
ハルの言った言葉が、肺の奥に煤のようにこびりついて離れない。
『機械になっても、なくならないものがある』
もし、機械になることが絶対的な正解でないとしたら。自分がこの喘息の肺を捨てて手に入れたかった「完璧」は、ただの「空っぽ」への近道だったのではないか。
第2話で初めて投げた時の、あの指先から脊髄を駆け抜けた、血が沸騰するような熱。鋼鉄の腕は、それを「電気信号」としてしか認識できない。それは、あまりにも寂しい、欠陥品としての生ではないか。
ピ、という鋭い電子音が、ショウタの思考を断ち切った。
ウォッチが、ミドルシティ下層公立病院からの「特急緊急連絡」を告げている。
心拍数が、出力エラーを起こしたアーム・リグのように大きく跳ねた。
『——ショウタ君。残念だが、お母さんのナノマシン汚染が、再増殖段階に入った』
主治医の声は、錆びた鋼鉄のように冷たかった。毎日何十人もの死に同席してきた、感情の機能をオフにした者の発声。
『これまでの標準治療では、もはや肺の崩壊速度を抑えられない。24時間以内に最新の抑制プロトコルへ移行する必要がある。……ただし、医療保険の対象外だ』
【追加治療費見積:1,200,000クレジット/月 ※前金制】
目の前に突きつけられた、死の宣告に等しい数字。
二部で得た賞金。過酷な配送バイトの端金。そのすべてを掻き集めても、母をあと一週間生かすことすら叶わない。
一部リーグ、優勝賞金三億。
その巨大な数字が、逃げ場のない毒のように、ショウタの意識を侵食し始める。
「……はは、笑えないな」
通路の壁にもたれ、ショウタは崩れ落ちそうな膝を必死で支えた。
生身でいれば、人間としての「熱」を守れる。だが、生身のまま一部の「無差別級」に挑むのは、裸足で溶岩の上を走るような、効率の悪い自殺に過ぎない。相手は、戦車と変わらない出力を誇る、全身を装甲で包んだ重機士たちなのだ。
勝つためには、強くなるしかない。
強くなるためには、この「熱」を捨て、鋼鉄の「空虚」を肺に詰め込むしかない。
母を救うための選択が、母が愛してくれた「僕」を殺すことだとしたら——。
いつか目を覚ました母が、息子の冷たいチタンの指に触れて、それでも「あなただ」と微笑んでくれる保証は、この街のどこにも、一行のログにすら存在しない。
「……ショウタ。どこにいる」
通路の向こうから、清盛の重く低い声が響いた。
ショウタは、返事をすることができなかった。喉まで出かかった「ここです」という三文字が、機械化への誘惑に揺れる自分の「汚れ」を見透かされるようで、言葉にならない。仲間の信頼が、今は、網膜を焼くスポットライトのように眩しすぎた。
肺の奥が燃えるように熱い。それは喘息の発作なのか、それとも、消えかかっている「人間」としての最後の抵抗なのか。
ウォッチに表示された【CAUSE:RESPIRATORY FAILURE】の赤色が、視界を血の海のように染め上げていく。
「……待ってろよ、母さん。……俺は、野良犬だ。……魂を部品にして売り払ってでも、その三億を獲りに行く」
吸入器を口に押し当てた。
冷たく、苦い化学薬品が肺を満たし、痛みを無理やり麻痺させる。
鏡に映った少年の目は、もはや憧れに揺れる子供のものではなかった。だが、まだ完全に、覚悟という名の鋼鉄にも、なりきれていなかった。
鋼鉄の牙を手に入れるか、肉の熱で奇跡を演算するか。
その答えは、母の枕元で削られていく時間と、自分の手のひらに残る、この「熱」のどちらが先に尽きるかに委ねられている。
一部リーグの開門まで、あと、七十二時間。
ショウタは、まだ、自分という部品を選べずにいた。




