第16話:ハルの選択
第16話:ハルの選択
残り時間、四十五秒。
ベクター・アリーナの電光掲示板が、狂ったような速度で赤色の数字を削り落としていく。
ジオが山田の『多腕狙撃』に膝を屈した一瞬の空白を、『ストリートドッグス』の野良犬たちは逃さなかった。
「……行けえぇぇっ!」
清盛の咆哮。呼吸を整えたリーダーが、再び戦場の中央へ弾け飛ぶ。
タイシのバットが音速の壁を噛み、赤球を重力ごとアイアンクロウの足元へ叩きつける。スエの義腕が火花を上げ、サクラが死角から黒球を縫うように放り込む。
【アイアンクロウ:260 vs ストリートドッグス:240】
ついに、ライフが並んだ。
上層ラウンジでは、賭け率の逆転にパニックを起こした富裕層たちが、持っていたグラスを床に叩き落とす音が響いているだろう。一万二千人の観客が、もはや座席を離れ、フェンスを掴んで身を乗り出していた。
残り三十秒。
アイアンクロウの絶対君主、カインが動いた。
「……消えろ。計算外のゴミ共が」
漆黒の右腕が、しなる重機のように振り抜かれる。
【MAX VELOCITY:287km/h】
狙いはただ一人。チームで最も脆弱な心臓――しょうただ。
その瞬間、カインの右足の踵が、わずかに、だが確実に白線を越えた。
だが、審判の笛は鳴らない。
不正を飲み込み、予定調和の勝利を演出しようとする「システム」の沈黙。
「――異議あり(プロテスト)!」
アリーナを静まり返らせたのは、アイアンクロウのベンチから立ち上がった、ハルの声だった。
「副審、今のオーバーラインを見逃すな。協会規則第十七条に基づき、リプレイに代わる目視判定の再考を要求する」
自らのキャプテンを指差す、銀色の義腕。
アイアンクロウの控え選手が慌ててハルの袖を引くが、彼は氷のような決意でそれを振り払った。その瞳は、もはや「空っぽ」ではなかった。
審判の目が、初めて恐怖に揺れる。一万人の「真実を見た」観客の視線が、彼を逃さない。
ピーーーッ!
「……オーバーライン。アイアンクロウ、攻撃権喪失!」
どよめきが爆発し、アリーナが揺れた。
カインの放った「死の一投」は、無慈悲なシステムごと無効化された。
残り十五秒。攻撃権は、しょうたの手に移った。
サクラから受け取った黒球を握り締め、しょうたは正面に立つカインを見据えた。
完璧なフォーム。完璧な出力。だが、この男には、あの路地裏で拳を交えたガンツのような「命の匂い」がしない。
「……あんたの投球には、熱がない。ただの、綺麗な処理だ」
しょうたは、焼ける肺に最後の空気を詰め込んだ。
手首のウォッチに、また一行、致命的なCAUSEログが追加される。構わなかった。
左腕を一閃。
放たれたのは、三部リーグの泥と汗を吸い込んだ、シュート回転。カインの演算が「直線」と判断した瞬間、ボールは意志を持つ生き物のようにカインの右脇腹を抉った。
【TARGET:CAIN LIFE:100 → 0】
【WINNER:STREET DOGS】
アリーナを包んだのは、耳を聾するような叫びだった。
サクラが泣き笑いの顔で膝をつき、タイシが静かにバットを置く。清盛は汗を拭い、濁ったオレンジ色の天井を見上げて小さく微笑んだ。
試合後。冷たい蛍光灯が明滅する選手用通路で、しょうたはハルとすれ違った。
「……ハルさん。どうして」
ハルは足を止め、振り返らずに、自分の美しい義腕を一度だけ見つめた。
「……俺は、部品に戻るのが嫌だった。……ただの、ドッヂボール選手でいたかっただけだ」
その肩は、どこか震えているように見えた。
「しょうた。機械になれば、すべてが楽になる。喘息も、痛みもな。……だが、機械になっても、なくならないものがある」
ハルは、それだけを残して闇の中へ消えていった。
なくならないもの。
しょうたは、痺れる自分の左手を見た。
そこには、鉄ではない、肉と血が刻んだ確かな「熱」が、今も脈動し続けていた。
アリーナの外は、重い酸性雨が降り始めていた。
野良犬たちの戦いは、まだ終わらない。次なる地獄へのゲートが、ゆっくりと開き始めていた。




