第12話:ハルという裂け目
二部開幕まで、あと七十二時間。
ミドルシティ中層に君臨する『ベクター・アリーナ』は、下層のスタジアムを薄汚れた玩具に見せるほど、冷徹な静謐さと威容を誇っていた。
上空ではスポンサー企業のホログラム・ロゴが網膜を焼くほどの彩度で踊り、巨大なガラス面からは、選ばれた市民だけが享受できる「無菌状態の熱気」が漏れ出している。
ショウタは、眩しすぎる正面を避けるように、地下三階の搬入駐車場へと回った。
巨大なコンクリートの胃袋。排気ガスの煤と、精密機械が吐き出す焦げたオイルの臭いが混ざり合うこの場所こそが、二部の剥き出しの真実だと思えた。
「……野良犬か。タグが不釣り合いだな」
闇の中から放たれた低周波の音に、ショウタの肺が痙攣した。
柱の影、メンテナンス用のアームの下に、一人の少年が立っていた。
十六、七歳ほど。痩せた体に、銀色の擬似神経ラインが走るアイアンクロウ仕様の機人スーツ。だが、その胸の紋章を見た瞬間、ショウタの心臓は喘息の予兆とは別の、鋭い恐怖に貫かれた。
「お前、アイアンクロウの……」
「ハルだ。……ただのバックアップ。誰かのパーツが壊れた時に埋められる、ただのスペアだよ」
ハルと名乗った少年は、感情の起伏を完全に去勢された声で言い、ゆっくりと間合いを詰めてきた。右腕は継ぎ目のない漆黒のセラミック義腕。カインが纏っていたものと同じ、軍事規格の最新鋭だ。
だが、その瞳に宿っているのは誇りではない。使い古されたボルトが、ただそこに存在しているだけのような、虚無的な「諦念」だった。
「ショウタ。お前のバイオ・ログを読み取った。……肺機能が組織壊死を起こしている。なぜ、この死の檻に入る」
「……勝って、金を稼ぐ。それ以外に、母さんを救う道がない」
ハルが初めて、微かな、そして物理的に歪んだ笑みを浮かべた。
「金、か。……いいか、よく聞け。二部は、三部とはゲームの『物理法則』が違う。……お前らがどれほど計算を尽くそうと、マウンドの重力定数は、最初からカインたちのために書き換えられているんだ」
ハルが手にしていたデバイスを、ショウタの視界に強制同期させた。
網膜に浮かび上がったのは、三日後の「ストリートドッグス vs アイアンクロウ」の裏データ。審判員の視覚センサーの盲点設定、スタジアムの床に埋め込まれた慣性制御による『カインの投球への微かな追い風』。これらすべてが、企業の株価変動に合わせた「興行シナリオ」として詳細に組まれていた。
「審判の主観ですらない。……スタジアムを制御するメインフレームそのものが、お前たちの敗北を『正解』として演算している。二部のドッヂボールは、もはやスポーツじゃない。完璧な結末へ向かう、兵器の試運転だ」
地下駐車場の古びた蛍光灯が、断末魔のような音を立てて明滅する。
ショウタはハルの言葉を拒絶しようとしたが、喉の奥が鉄の味に支配され、声が出ない。
「……そんなの、嘘だ。理屈が通らない……」
「通るさ。それが二部の唯一の理屈だ。……そして、俺たちはその演算を邪魔しないための家畜なんだよ」
ハルは、自分の左腕を無造作に掴むと、関節部のカバーを引き剥がした。露出した配線とシリコンの肉。彼はそこに、錆びたドライバーのような工具を突き立て、調整を始めた。痛みで顔をしかめることさえない。その行為は、ただの「部品交換」に過ぎなかった。
「アイアンクロウが強いんじゃない。アイアンクロウが『絶対に負けない』ように、この都市のインフラが最適化されているんだ。……お前には関係ない話だがな。三日後、お前はただ、効率的に、痛みのないうちに処理されればいい」
ハルはそれだけ言うと、暗がりの奥へと消えた。
義肢の駆動音さえしない、死者のような完璧な静行。その背中は、一度人間を捨てて「完璧」に修復された機械特有の、吐き気のするような美しさに満ちていた。
ショウタはその場に崩れ、膝をついた。
喘息の「ヒュー」という醜い音が、コンクリートの空洞に反響する。
ウォッチの表示を確認する。【LIFE:100】。
数字は減っていない。だが、今聞いた「冷徹な不正」が、目に見えない汚染物質のように、ショウタの肺をじわじわと、確実に蝕んでいくのが分かった。
(……仕組まれた、プログラム。……全世界が、あいつらの味方か)
ショウタは吸入器を口に押し当て、肺を刺すような苦い薬を飲み込んだ。
顔を上げると、地下駐車場の出口の向こうに、濁ったオレンジ色の蓋が見える。
それはもはや夕焼けではなく、すべてを呑み込んで錆びさせる、巨大な「システムの檻」の色だった。
「……やってやるよ。……完璧なプログラムなら、僕の『不規則』で、バグらせてやるまでだ」
野良犬たちの戦いは、もはやコートの中だけでは収まらない。
理不尽を飲み込み、少年は、汚れた路面を強く蹴って、前へと進み出した。




