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没落寸前令嬢の私は、伯爵のお屋敷でお洗濯係を拝命いたしました。  作者: 逆立ちハムスター


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 執務室に満ちていた青い炎の香りは、カトリーヌ嬢の甲高い声と、お母様の泣き出しそうな嘆息によって、一瞬にしてかき消された。

 

 私は、ロドアス伯爵の逞しい手に包まれていた自分の指先を、名残惜しさを押し殺して引き抜いた。今は、甘やかな空気に浸っている場合ではない。私の家族が、そして私自身の「自由」が、またしても時代の荒波に呑み込まれようとしているのだから。


「アリア姉様が、ヴェンデッタ商会の総帥と……?」


 私は、お母様が握りしめていた招待状をひったくるようにして受け取った。

 そこには仰々しい金文字で『ヴェンデッタ商会・最高責任者、バナビー・ヴェンデッタと、アリア・サン・ピエール男爵令嬢の婚約内定を祝す晩餐会』と記されていた。


 バナビー・ヴェンデッタ。

 石炭事業で急成長を遂げた新興勢力の長であり、ロドアス伯爵の合理的な経営とは対照的に、買収と恫喝、そして独占的な市場操作で成り上がった「資本の怪物」だ。


「そうよ、ミレリア! あの方は凄いのよ。アリアに一目惚れしたって仰って、お父様の残した借金を一括で肩代わりするだけでなく、没落した私たちの屋敷も買い戻して、最高級の調度品で整えてくださるって。……ただ一つ、交換条件として、あなたを彼の『秘書』として譲ってほしいと……」


カルテルの常套手段であるアクハイヤーの1種だ。

「秘書……? そんなの、ただの言葉の綾だわ、お母様」


 私は吐き捨てるように言った。バナビーの狙いは明白だ。

 今や伯爵の「ビジネスパートナー」としてその名が知られ始めた私を、伯爵の手元から引き剥がし、人質に取ること。そして、私から伯爵の事業の「知恵」を吸い出し、あわよくば伯爵の精神と事業を追い詰めること。


 アリア姉様は、瞳に希望の光を宿して私を見つめていた。


「ミレリア、ごめんなさいね、あなたの意思も聞かずに。でも、これでお母様もゼナも、もう寒い思いをしなくて済むのよ。あなたは優秀だから、あの方の秘書になっても、きっと上手くやっていけるわ。あの方も『彼女の洗濯局の噂は聞いている、ぜひ我が社の物流改善を任せたい』って仰っていたし……」


 お姉様。彼女は本気で、これが「家族全員が幸せになる唯一の道」だと信じているのだ。

 自分を犠牲にして、妹を犠牲にして。それが貴族の女としての「至高の愛」だと思い込まされている。

 その善意が、今はどんな毒よりも痛い。


「……ヴェンデッタか」


 背後でロドアス伯爵が低く、地を這うような声を出した。

 彼が立ち上がると、室内がミシミシと鳴るような圧迫感に包まれる感じがした。


「カトリーヌ。貴様がこの縁談に一枚噛んでいることは容易に想像がつく。……俺の屋敷から、よくもまあ不純物を持ち込んでくれたものだ」


「あら、ロドアス様。私はただ、お友達のアリアさんの幸せを願ってお節介を焼いただけですわ。没落令嬢がそのまま洗濯女として朽ち果てるより、大商人の秘書として華やかな世界へ戻る方が、どれほど素晴らしいことか。誰が見ても明らかでなくて?」


 カトリーヌは扇で口元を隠し、嘲笑を含んだ目で私を見た。


「さあ、ミレリアさん。潔くお認めなさいな。あなたの高貴な居場所はこんな煤くさいところではなく、光り輝く書斎のはず。……それとも、伯爵様に泣きついて、この膨大な借金を肩代わりしてもらうつもり? 『愛されている』という根拠のない自信だけで?」


 私は拳を握りしめた。

 伯爵に頼る? それは、私がこれまで積み上げてきたものをすべて捨てることと同じだ。私は彼に「買われる」存在になりたいのではない。彼の隣で「働く」存在でありたいのだ。


「……お母様。お姉様。明日、そのバナビー様にお会いします。お返事は、それからでも遅くはないでしょう?」


「ええ、もちろんよ! 明日、ヴェンデッタ商会の迎賓館で晩餐会が開かれるわ。そこでお披露目なんですって」


 私は招待状を握り締め、伯爵の方を振り返った。

 彼は冷徹な眼差しで私を見つめていた。その瞳の奥には、私への信頼と、それ以上の激しい独占欲が渦巻いているのがわかった。


「旦那様。……明日の晩餐会、同行を許可していただけますか? 『洗濯局長』としての仕事が、一つ増えましたので」


「……言っておくが、ミレリア。俺は、一度手に入れた『資本』を、他人に譲るほど生易しい慈悲は持ち合わせていないぞ」


「承知しております。……汚れきった布地を、真っ白な状態に戻す。それこそが、私の専門分野ですから」


────


 翌日。

 ヴェンデッタ商会の迎賓館は、目が眩むほどの華やかさに包まれていた。

 最新式の精霊灯が煌々と輝き、給仕たちが最高級のヴィンテージワインを運んでいる。


 私は、お母様と姉様たちが用意した、サン・ピエール家に代々伝わる「最高級だが時代遅れ」な正装に身を包んでいた。胸元にはあのルビーのペンダント。そして、その隣には――正装を纏ったロドアス伯爵。

 彼がエスコート役として現れたとき、会場は水を打ったように静まり返った。


「ようこそ、ロドアス伯爵。そして、我が『未来の右腕』、ミレリア・サン・ピエール嬢」


 現れたのは、脂ぎった顔に、不自然なほど白い歯を光らせた男。バナビー・ヴェンデッタだ。これでもかと着飾っている宝飾品が眩しい。

 彼は私の手を取ろうとしたが、伯爵がそれよりも早く私の腰を抱き寄せ、彼を牽制した。


「バナビー。挨拶は簡潔にしろ。貴様の出す酒は、どうも不純物が多いようで、喉を通りにくい」


「くくっ、相変わらず手厳しい。……さあ、アリア嬢。皆に紹介しよう。我が商会の新しい『女神』を」


 バナビーに促され、アリア姉様が緊張した面持ちで壇上に上がった。

 彼女は、バナビーから贈られたのであろう、目が眩むほどの大粒のダイヤモンドを身に纏っていた。けれど、その輝きは、お姉様本来の優美さを塗りつぶしているように見えた。


「――皆さんに、発表があります。本日、私はサン・ピエール家のすべての負債を買い取りました。そして、この伝統ある家系を、我がヴェンデッタ商会の一部として迎え入れることにしたのです!」


 拍手喝采。

 お母様は感極まってハンカチを握りしめている。

 けれど、私はバナビーの言葉の端々に漂う「悪臭」を見逃さなかった。


 私は伯爵の耳元で囁いた。

「旦那様、あの方の胸元のチーフを見てください」


 伯爵が鋭い目でバナビーを観察する。

「……チーフ? ただの白い絹だろう」


「いいえ。あの白さは不自然です。おそらく、最新の錬金薬品で漂白したもの。……ですが、あの薬品には致命的な欠陥があります。特定の条件下では、繊維を急激に劣化させ、異臭を放つ毒素へと変わるのです」


 私は、バナビーが誇らしげに掲げているワイングラスに目をやった。

 

「――バナビー様。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


 私は凛とした声で壇上の男に問いかけた。

 

「何かな、ミレリア嬢。我が社の経営に加わる前の、入社試験かな?」


「いいえ。あなたの『誠実さ』の試験です。……あなたが買い取ったサン・ピエール家の負債。その出所を、すべて『清浄な資金』だと言い切れますか?」


 会場に動揺が走った。バナビーの顔から、笑みが一瞬だけ消える。


「何を言う。すべて正当な事業利益だ。君のような小娘に何がわかる」


「わかります。あなたの身に纏っているその服、そしてその迎賓館の壁紙。すべて、特定の錬金溶剤の匂いがします。……精霊砂の採掘現場で、禁忌とされている『重金属溶出法』。それを使った形跡が、あなたの持ち物すべてから滲み出ているのです」


 私は、一歩前に出た。


「お洗濯の基本は、汚れを落とすこと。ですが、汚れを隠すために劇薬を使えば、布そのものを腐らせます。……あなたは、アリア姉様や私を救うふりをして、私たちの家系を、あなたの違法な資金洗浄の『洗濯場』にしようとしているのではありませんか?」


「デタラメだ。証拠でもあるのか?」


 バナビーが静かに激昂したその瞬間。

 会場の気温が、再び氷点下まで下がった。

 ロドアス伯爵が、一歩、私の前に踏み出したのだ。


「証拠なら、ここにある」


 伯爵が投げ出したのは、一通の黒い表紙の羊皮紙の束だった。

 

「ヴェンデッタ。貴様が街道を封鎖していた間に、俺は貴様の『逆方向の水路』を洗わせていた。貴様がこの一ヶ月で、どこから資金を引き出し、どの会計書に書き込んだか……すべて精査済みだ。ミレリアの指摘通り、貴様の事業は、精霊砂の乱開発による環境汚染と、違法な密輸で成り立っている」


 バナビーの顔が灰色に変わっていく。


「そんな……嘘よ、バナビー様! あなたは、私たちの誇りを守ってくれるって……!」


 アリア姉様が、バナビーの腕を掴んだ。

 けれど、バナビーは邪魔だと言わんばかりに彼女を突き飛ばした。


「黙れ、没落女! 貴様の家なんて、ただの看板だ! 伯爵の喉元に食らいつくための道具にすぎん!」


 突き飛ばされたアリア姉様を、間一髪で支えたのは、私だった。


「お姉様、大丈夫!?」


「ミレリア……私、私……また、間違えたのね……」


 アリア姉様が泣き崩れる。

 私は、彼女の背中を優しく叩きながら、壇上の怪物を見据えた。


「バナビー様。……お洗濯の時間ですわ。あなたが隠そうとしたすべての汚れを、この場で洗い流させていただきます」


 その時。

 バナビーが身につけていた「不自然に白いチーフ」から、ブスブスと煙が上がり始めた。

 私の予想通り、強濃度のアルコールと彼の怒りの感情、室内の湿度が上昇したことで、漂白剤に含まれていた未反応の錬金薬品が反応を起こしたのだ。


「熱っ、熱い! 何だこれは!?」


 チーフが黒く焼け焦げ、不快な硫黄の匂いが会場中に充満する。

 それは、彼の虚飾が剥がれ落ちる象徴的な光景だった。


「ひいっ! 毒ガスよ! 逃げろ!」


 招待客たちが我先にと逃げ出す中、ロドアス伯爵は迷いなくバナビーに歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。


「――資本の論理だと言ったな、バナビー。……偽造した資産は、いずれ必ず負債に変わる。貴様の商会は、明日、王命によって差し押さえられる。貴様に残されるのは、その焼け焦げた服と、牢獄の格子だけだ」


 伯爵は、虫を振り払うようにバナビーを突き放した。

 そして、私の元へと戻ってくると、膝を突き、泣いているアリア姉様とお母様、そして私を見つめた。


「サン・ピエール家の負債は、すべて俺が……いや、俺の『洗濯局長』が、自らの報酬をもって清算する。貴様らが、二度とこの男のような汚物に頼らなくて済むようにな」


「旦那様……」


 私は、彼の言葉の意味を理解した。

 彼は、私の「自立」を損なわない形で、家族を救う道を示してくれたのだ。


────


 数時間後。

 嵐の去った伯爵邸の洗濯場。

 私は、正装を脱ぎ捨て、いつものエプロン姿で、アリア姉様がバナビーから贈られたドレスを、冷たい水で洗っていた。


「……ミレリア。どうして、あんな男からの贈り物を洗っているの?」


 アリア姉様が、目を赤く腫らして私の隣に立った。


「このドレスに使われている糸そのものに罪はないわ、お姉様。汚れを落として、丁寧に染め直せば、また別の誰かを幸せにする服に生まれ変われる。……お姉様も同じ。一度ついた『しみ』なんて、私が全部、綺麗にしてあげるから」


 アリア姉様は、私の手をぎゅっと握り、声を上げて泣いた。

 

 今度は、お母様も、ゼナ姉様も、そして例のジャガイモ風実業家の男性も一緒だった。

 私の家族はようやく、自分たちがしがみついていた「貴族の誇り」という名のドレスが、いかに綻んでいたかに気づいたようだった。


「ミレリアに救われただけじゃなく、大切なことを教えられたわね」

「だったら、せっかくだから、私が支援した養鶏事業の舵を取ってみないかい?」

ジャガイモ風実業家がゼナ姉様の肩に手を回し、寄せる。ゼナ姉様は、最初とは違い、どこか幸せそうだった。

「ちゃんと、アドバイスしてくださる?」

「勿論さ! 将来の我が美しき妻が、事業にも精通しているなんて、素晴らしいことだ!」

ゼナ姉様の言っていた成金の嫌味というのは、どうやらただの仕事中毒らしかった。


アリア姉様が私にそっと肩を寄せる。

「ミレリア……私、もう一度、一からやり直すわ。家の宝石を売るんじゃなくて、私も、何か……」


「ええ。お洗濯局には、人手が足りていないの。お姉様のその美しさは、新しい時代の『看板』として、きっと役に立つわ」


 家族が寄り添い合う。

 そこには、かつての虚栄ではなく、不格好だけれど確かな、泥臭い「家族の絆」があった。


お母様が私の手を取る。

「ミレリア。あなたはやっぱり、自慢の娘よ」


コッコッコッコッ。


増えた鶏達の声を聞きながら思いふけた。私は時代の変化に翻弄されたけれど、帰るべき場所だけは、失っていなかったのだと改めて思った。


────


 洗濯場の入り口に、一つの影が立った。

 ロドアス伯爵だ。

 彼は、手に一通の新しい契約書を持っていた。


「……ミレリア。家族の洗濯は終わったか?」


「はい。完璧に仕上がりましたわ、旦那様」


「なら、次は俺との契約だ。……洗濯局長、兼、『伯爵家女主人』としての専属契約だ。報酬は……俺の生涯の資本、そのすべて。どうだ、効率的な取引だと思わないか?」


 伯爵は、これまでで一番、不器用で、不釣り合いな、でも熱い笑顔を見せてくれた。


 私は石鹸の泡がついた手をさっと拭き、彼に歩み寄った。


「条件の再考を要求します。……報酬には、『毎日、一緒にオリジナルブレンドの青い炎を飲む時間』も追加してください。それは、どんな硬貨よりも貴重な、私のための資本ですから」

「ハハハ、そうでなくては」


 伯爵は乾いていたが温かい笑いを見せたあと、私の腰を引き寄せ、優しく唇を重ねた。


 特権を捨てて実力で掴み取った、最高の愛。

 

 没落寸前令嬢の私は、伯爵のお屋敷で「世界一幸せな洗濯係」としての新しい人生を、今、ここに紡ぎ始めた。


 時代の風が、真っ白な衣類をどこまでも高く翻らせていく。

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