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没落寸前令嬢の私は、伯爵のお屋敷でお洗濯係を拝命いたしました。  作者: 逆立ちハムスター


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 翌朝、サン・ピエール家の食卓には、いつぶりか……「本物の紅茶」の香りが立ち込めていた。

 私が昨日いただいた特別ボーナスの一部で、街で一番の茶葉店から買い求めてきたものだ。


「……ああ、この芳醇な香り。これこそが、私たちの血に流れる高貴さを呼び覚ます、真の調べだわ……」


 お母様が、うっとりと目を閉じて琥珀色の液体を啜る。その隣で、アリア姉様は私が買い戻してきた「母の形見の銀のティースプーン」を、愛おしそうに磨いていた。


「ミレリア、本当にいいの? こんなにたくさんの金貨、あなたの結婚資金として貯めておいた方が……」


「いいのよ、お姉様。これは私が『仕事』で稼いだお金。家族が心穏やかに過ごすために使うのが、一番効率的な投資だわ」


 私が柔らかいまともなパンにたっぷりとアステリア国の最高級ベリージャム(これも久しぶりだ!)を塗りながら答えると、次女のゼナ姉様が身を乗り出してきた。


「ねえ、ミレリア。それより聞いたわよ。伯爵様から『洗濯局』なる物の設立を任されたんですって? それって、実質的に伯爵邸の女主人――つまり、お城の管理を任されたも同然じゃない!」


「違うわよ、ゼナ姉様。お城じゃなくて、輸送ターミナルの……あくまでお洗濯部門。……あ、でも、役職名は『洗濯局長』って伯爵が言ってたわね」


「局長! なんて良い響きかしら!」


 三人は一斉に歓声を上げた。彼女たちの頭の中では、私が豪華なオフィスで優雅に指示を出す姿が想像されているのだろう。けれど、現実はそんなに甘くない。


 私は、お母様が無理やり持たせようとした「真珠のついた扇」を丁重にお断りし、代わりに丈夫なキャンバス地の鞄に、何種類もの石鹸の試供品と、メモ帳を詰め込んだ。


「行ってきます。今日は、現場の作業員さんたちとの顔合わせなの」


「いい? ミレリア。相手が荒くれ者でも、あなたはサン・ピエール家の令嬢。誇りを捨てずに、毅然とした態度で……あ、でも、伯爵様の前では、少しだけ儚げに振る舞うのよ!」


 お母様のトンチンカンなエールを背に受けながら、私は新しい戦場へと足を踏み出した。


────


 第一輸送ターミナルの裏手に用意された「洗濯局」の予定地は、まだがらんとした、ただの倉庫だった。

 そこに、家政婦長のマーサさんと、十数人の屈強な男性作業員たちが集まっていた。


「――それで? この『お嬢ちゃん』が、俺たちの服を管理するっていうのかい?」


 一人の大柄な作業員が、皮肉っぽく笑った。

 彼の作業着は、精霊砂の煤と機械油が混ざり合い、もはや元の色が何色だったのかも分からないほど汚れている。周囲の男たちも、私を見る目は「場違いな令嬢が遊びに来た」という冷ややかなものだった。


 マーサさんは、腕を組んで黙って私を見ている。彼女は助けてくれない。ここで自分の価値を証明できなければ、伯爵の期待に応えることはできないのだ。甘えなど一切許されない。これはビジネス。私がここの責任者を任されたのだから。


 私は鞄から一つの小瓶を取り出した。


「皆さんは、毎日その重たい服を着て、この熱気の中で働いています。……腕が上がりにくかったり、皮膚が痒くなったりしていませんか?」


「……ん? そんなの、この仕事じゃ当たり前だろ」


「当たり前ではありません。それは、繊維の奥に詰まった酸化した油と、精霊砂の微粒子が、肌を傷つけているからです。……そこの、一番汚れている服のあなた。その上着、五分だけ貸していただけますか?」


 私は、男から剥ぎ取るようにして(といっても、令嬢らしく丁寧に)上着を預かった。

 そして、用意されていたタライと、私が長年読んできた錬金知識から、独自に調合した「煤落とし特化型石鹸」を取り出す。


「見ていてください。これは単なるお掃除ではありません。伯爵様が仰る『資本のメンテナンス』です」


 私はドレスの袖を捲り上げ、迷いなく汚れた水の中に手を突っ込んだ。

 周囲から、小さく息を呑む音が聞こえる。


 叩き、揉み、汚れの核を見極めてから、熱を帯びた精霊砂の洗浄液を投入する。無闇に力を入れて擦ってはダメだ。それでは服の繊維が傷んでしまう。

 五分。

 正確に時間を計り、私がその上着を引き揚げ、絞り上げたとき。


 ――洗濯場に、驚愕の沈黙が流れた。


「……おい、嘘だろ。あの頑固な油汚れが……」


 真っ黒だった上着は、本来の深い紺色を取り戻していた。それだけではない。私が配合した植物由来の成分により、生地は柔らかく、そして微かに森の香りのような、清涼な香りを放っていた。


さて、事前に洗って干していた、替えのこれを着てみてください。きっと、今までの半分以下の力で腕が動くはずです」


 男が半信半疑で上着を羽織る。

 彼が腕を回し、屈伸をした瞬間、その顔に驚きが広がった。


「軽い……。おい、なんだこれ、新全然違うぞ!」


「汚れは、重りです。私はその重りを取り除き、皆さんが最高のパフォーマンスを発揮できる環境を作ります。……私の指示に従っていただけますか? それとも、これからもその重い鎧を着て、身体を壊し続けたいですか?」


 男たちは顔を見合わせた。

 もはやそこには、私を「没落令嬢」として見る目はなかった。一人の「プロフェッショナル」に対する、敬意の萌芽があった。


「……局長。よろしくお願いします」


 一人がそう呼ぶと、次々と拳が上がった。

 私は安堵で少しだけ膝が震えそうになるのをこらえ、凛とした声で応えた。


「はい。まずは、ターミナルの蒸気機関から出る余熱を利用した、大規模な乾燥システムの構築から始めます。マーサさん、この設備の予算案の最終チェックをお願いしてもよろしいですか?」


 マーサさんは、初めて私に向かって、小さく、けれど確かな笑みを浮かべた。


「……いいわ。旦那様が貴女を指名した理由、ようやく合点がいったわ。ミレリア局長」


────


 それから数日間、私は狂ったように働いた。

 精霊砂の性質をしっかりと研究し、錬金学者に手紙を書き、ターミナルの工学エンジニアと膝を突き合わせて配管図を引いた。

 

 お母様と姉様たちは、毎日帰宅する私の服が「令嬢のドレス」ではなく「作業着」に近づいていくのを嘆いていたが、私が持ち帰る銀貨の袋と、何より私の生き生きとした表情を見て、次第に「ミレリアは、お洗濯という名の聖戦に赴いているのね」と独自の解釈をして応援してくれるようになった。


────


 そんなある日の夜。

 そこそこ整ってきたターミナルの事務所で、私は最後の一枚の報告書を書き終えた。

 

「……ふう」

これで、来月からの運用テスト準備は完璧ね。背伸びをして凝り固まった肩を回すと、いつの間にか開いていたドアの隙間から、聞き慣れた声がした。


「……おや、まだ起きていたのか。君の体力は、うちの多管式砂素連結鋼馬(機関車)よりも優れているようだな」


 ロドアス伯爵だ。

 彼は上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げたラフな格好で立っていた。その手には、二つの湯気が立つカップ。


「旦那様。……こんな時間までお仕事ですか?」


「君が立てた『洗濯局』の収支計画書などを読んでいた。……凄まじいな。作業員の負傷による欠勤率が三割減り、被服の買い替えコストが四割削減されるという試算……。最初は眉唾だと思ったが、今の現場の士気を見れば、あながち夢物語でもなさそうだ」


 彼は私のデスクの向かいに座り、カップの一つを私に差し出した。

 香ばしい森の香り。青い液体?


「賢者の青い炎ですか?」

「ああ。だが、セージにエルフの神木の樹液を加えた、私のオリジナルブレンドだ」

「ありがとうございます。……それと、旦那様が私にチャンスをくださったからです。私はただ、自分の得意なことで、旦那様の役に立ちたかっただけですから」


「……役に立ちたかった、か」


 伯爵は青い炎を一口飲み、視線を窓の外に広がる夜のターミナルに向けた。

 

「ミレリア。俺は、この事業を始めたとき、誰からも理解されなかった。貴族は俺を『血を汚した成金』と笑い、労働者は俺を『搾取する側の人種』と蔑んだ。……俺は、ずっと一人で戦っているつもりだった」


 彼の横顔は、月明かりに照らされて、どこか儚く見えた。

 石炭と精霊砂の帝国を築き上げた、無敵の実業家。その鎧の下にある、本物の孤独。


「……ですが、今は私がいます」


 私は思わず彼の手に、自分の手を重ねようとして……あかぎれだらけの指先に気づいて、慌てて引っ込めた。

 けれど伯爵が逃さなかった。

 

 彼は私の手を、そっと、包み込むように取った。


「……旦那様、私の手は、洗浄剤で荒れていて……」


「これが、俺の事業を支える『美しい手』だと言ったはずだ。忘れたのか?」


 彼の指先が、私の手の甲をなぞる。

 その感触は、熱く、そしてひどく優しかった。

 

「ミレリア。君が洗濯局長としてここにいるのは、俺の利益のためだけじゃない。……俺が、君をここに留めておきたいと思ったからだ。君がいないと、俺の事業も、俺の心も……どうやら、汚れが溜まって動かなくなるらしい」


 それは、合理主義者の彼が吐き出した、最高に非合理で、最高に情熱的な告白のようだった。


「……旦那様」


 私は彼の瞳の中に、自分自身の姿を見つけた。

 煤汚れをつけ、それでも誇らしげに笑っている、新しい時代の「貴族」の姿を。


 私たちの距離が、ゆっくりと縮まっていく。

 青い炎の湯気が私たちの間を揺らめき、静寂が部屋を満たす。

 

 けれど。


「――ロドアス様! 大変ですわ! 今すぐこちらへ!」


 夜の静寂を切り裂くような、けたたましい声。

 それは、あのお高く留まったカトリーヌ嬢の声だった。

 

 彼女は、血相を変えて事務所に飛び込んできた。その後ろには、なぜか私の母アノレノと、アリア姉様まで連れているではないか。


「お母様!? どうしてここに?」


「ミレリア! 大変よ! アリアが……アリアが婚約を申し込まれたのだけれど、そのお相手が……!」


 お母様が泣きそうになりながら、一通の派手な招待状を突き出した。


 カトリーヌが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて言い放つ。


「ロドアス様、お聞きになって? この没落令嬢のお姉様を射止めたのは、なんと……あなたの事業の最大のライバルである、『ヴェンデッタ商会』の総帥ですわ! しかも彼は、サン・ピエール家の借金をすべて肩代わりする条件で、ミレリアさん、あなたも『彼の所有物』として差し出すよう要求しているんですって!」


「……何だと!?」


 伯爵の声が、一瞬で絶対零度まで冷え切った。

 

 ヴェンデッタ商会。

 それは、石炭利権を巡って伯爵と激しく対立し、時には汚い手(流通量を操作して資源価格の釣り上げ。鉱山を意図的に爆破・封鎖するなど)も厭わないとされる、企業連合カルテルの一員という噂だ。彼らは自前装備、金に物を言わせた最新装備の傭兵軍を率い、国を跨いで多くの事業を飲み込んでいく凶悪な怪物だ。

 

 アリア姉様が騙されたのか、あるいは……。

 

 私は伯爵と繋いでいた手を、ゆっくりと離した。

 

 特権から実力へ。

 私がようやく掴みかけた「自立」という名の希望に、またしても「血統」と「過去」の呪いが襲いかかろうとしていた。


「……旦那様。お洗濯の時間は、まだ終わっていないようです」


 私はあえて明るく、けれど瞳に決意の炎を宿して言った。


「どんなに頑固な汚れでも、適切な溶剤と、正しい手順を踏めば、必ず落ちます。……我が家に巣食う『毒』も、私が綺麗さっぱり洗い流してみせますわ」


 ロドアス伯爵は、私の言葉を聞いて、口角を吊り上げた。

 その瞳には、私の決意に呼応するような、猛々しい闘志が宿っていた。


「いいだろう、ミレリア。俺の『パートナー』に手を出した代償がどれほど高いか……資本の論理で、奴らにも叩き込んでやる」


 時代の荒波は、国が存在しない王国との利権戦争という、次世代の複雑な形相を見せ、さらに激しさを増していくようだった。

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