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没落寸前令嬢の私は、伯爵のお屋敷でお洗濯係を拝命いたしました。  作者: 逆立ちハムスター


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 ロドアス伯爵が「逆方向に水を流す」作戦を断行してから三日。

 事態は驚くほど鮮やかに動き出した。


 伯爵が「旧街道を放棄し、多額の資金を投じて廃運河を再開発する」という偽の(あるいは本気の)計画書を公示した瞬間、街道を封鎖していた運送ギルドの結束は、音を立てて崩壊したのだ。

 自分たちが「唯一無二の生命線」を握っていると思っていた彼らにとって、その道が「あってもなくても良いもの」に格下げされることは、死を意味する。


 結局、ギルドの代表たちは真っ青な顔で伯爵邸に駆け込み、以前よりもずっと有利な条件での契約更新を求めて、伯爵の足元に平伏した。

 

 その日の夕刻、私は洗濯場で、山のような「お祝いの品」が届くのを横目に、いつも通り伯爵のシャツを洗っていた。

 

「……ミレリア」


どこか晴れやかな声。

 振り返ると、そこには多忙の極みから解放されたらしい、ロドアス伯爵が立っていた。

 いつもの不機嫌そうな皺が、今日だけは少しだけ和らいでいる。


「旦那様。……おめでとうございます。事態が収束したと伺いました」


「貴様の突拍子もない『洗濯の知恵』のおかげだ。……約束通り、今月からの給料を三倍に引き上げる。それと、これは特別ボーナスだ」


 彼が差し出したのは、重みのある革の袋だった。

 中には、私の一年分の生活費に相当するであろう金貨が詰まっている。


「……三倍。……金貨。……あの、旦那様。これほどの額をいただいても、私の仕事はあくまでお洗濯ですよ? それとも、これからは一枚のシャツを三回ずつ洗えということでしょうか?」


「馬鹿を言え。それは非効率の極みだ」


 伯爵は呆れたように鼻を鳴らすと、少しだけ真面目な顔をして私を見つめた。


「これは『情報』と『戦略』に対する対価だ。ミレリア、貴……お前は自分がただの洗濯係だと言い張るが、お前の視点は、並の経営コンサルタントよりもずっと本質を突いている。……その金は、お前の家族の借金に充てるなり、好きにしろ」


「…………ありがとうございます。ありがたく、大切に使わせていただきます」


 私は金貨の袋をぎゅっと握りしめた。

 これで、お母様が毎日気にしていた「香りのないハーブティー」を、最高級の茶葉に変えることができる。姉様たちが質に入れた思い出の品を、一つくらいは買い戻せるかもしれない。

 血筋ではなく、私が、私の言葉で勝ち取った「資本」だ。


「……だが、ただ金を与えるだけでは面白くない。ミレリア、明日、俺の視察に同行しろ」


「えっ……視察、ですか? 私は洗濯係ですが」


「洗濯物がない現場などないだろう。俺が新しく導入する『鉄の馬車』の拠点を回る。そこでは多くの作業員が働き、そして多くの『汚れ』が発生している。お前の目で、その現場の非効率を洗い流してみせろ。……これは命令だ」


────


 翌朝。私は、アリア姉様が「これだけは絶対に売らないで!」と以前、泣いて止めていた、男爵家で唯一残っていたまともな外出着――藍色のシンプルなドレスに身を包んだ。

 といっても、今の私には洗濯係としての自負がある。

 ドレスの上からでも動きやすいよう、丈夫な革のベルトで腰を締め、髪はいつものように清潔な三角巾でまとめようとしたが……。


「待ちなさい、ミレリア! そんな格好で伯爵様のお隣を歩くなんて、私が許しません!」


 お母様が、どこから持ってきたのか、レースのついた美しい日傘を突き出してきた。

 昨日の夜遅く帰宅したアリア姉様と、婚約者との夜会を渋々済ませたゼナ姉様も、自分のことのように大騒ぎだ。


「いい? ミレリア。これは『視察』という名の『デート』よ! 伯爵様がわざわざあなたを連れ出すなんて、もう落としたも同然だわ。さあ、この最高級の口紅を塗りなさい!」


「お姉様、違います。私はあくまで『洗濯の専門家』として同行するだけで……」


「言い訳はいいから! ほら、ルビーのペンダントも、今日は服の上に出しなさい。没落していても、私たちはサン・ピエール家の女。誇り高く、艶やかに、伯爵様の心に楔を打ち込んでくるのよ!」


 結局、姉様たちの猛攻に負け、私は不釣り合いなほど華やかな装飾品を身につけさせられ、伯爵の差し向けた馬車に乗り込んだ。


────


 案内されたのは、街の郊外に新設された「第一輸送ターミナル」だった。

 そこには、かつての馬車とは一線を画す、巨大な鉄の塊が鎮座していた。

 「精霊砂」を動力源とし、蒸気を吐き出しながら咆哮する鉄の馬車。それは、まさに資本の時代の象徴だった。


 伯爵は黒いスーツを風になびかせ、現場の指揮官たちに矢継ぎ早に指示を出していく。

 その姿は、屋敷で見せる不機嫌な顔とは違い、熱量に満ちていた。


「……どうだ、ミレリア。これが、この国の未来を運ぶ力だ」


 伯爵が私の隣に立ち、少しだけ自慢げに言った。

 私は、その力強さに圧倒されつつも、視線は別の場所に向いていた。


「……旦那様。未来を運ぶのは素晴らしいことですが、それを支える『足元』が、少しばかり泥にまみれすぎているようです」


 私が指し示したのは、鉄の馬車の整備を行っている作業員たちの姿だった。

 彼らの作業着は、精霊砂の煤と、機械油で真っ黒に汚れ、重たげに体にまとわりついている。


「彼らの服を見てください。油と煤が繊維の奥まで入り込み、もはや布としての通気性を失っています。あれでは夏場の作業は熱がこもり、冬場は冷え切ってしまう。作業員の疲労は蓄積し、やがてそれは整備のミスに繋がり……最終的には、旦那様の『鉄の馬車』を止めることになります」


 伯爵は、意表を突かれたように作業員たちを凝視した。


「……汚れが、事故を招くと?」


「はい。そして、彼らの家族も大変です。これほどひどい汚れを落とすには、通常の何倍もの時間と労力、そして強い石鹸が必要です。家での休息時間が洗濯に奪われれば、作業員たちの精神的な余裕も削られていきます。……旦那様、本当の意味で『効率』を求めるのであれば、この現場にこそ、プロの洗濯システムを導入すべきです」


 伯爵は、しばらくの間、無言で作業員たちの動向を見守っていた。

 そして、ふっと自嘲気味に笑った。


「……お前を連れてきたのは正解だったようだ。俺は、機械の馬力や輸送ルートの数字ばかりを見ていた。だが、それを動かす『人間』のコンディション、その最小単位である『服』のことにまでは、頭が回っていなかったな」


 彼は、私の顔をじっと見つめた。

 姉様たちが塗りたくった口紅や、胸元で揺れるルビーのペンダントではなく、私の言葉そのものを噛み締めるような、深い眼差し。


「ミレリア。このターミナル内に、専用の『洗濯局』を設置する。その設計と運用、すべてをお前に任せたい」


「え……? 私、ですか?」

このフットワークの軽さや、異次元に見える決断力。ゼナ姉様の婚約者にどこか似ている。これが資本を動かすトップの器。私は改めて、時代の変化に驚かされていた。


「そうだ。お前なら、どの洗浄剤を使い、どの程度の頻度で洗えば、作業員のパフォーマンスが最大化するか、計算できるだろう?」


 私は、目を見開いた。

 ただの洗濯係。

 けれど今、私は「伯爵の屋敷の家事」を超えて、この国の経済を動かす「巨大なシステムの一部」として必要とされている。


「……責任、重大ですね」


「嫌か?」


「いいえ。……やり甲斐があります。必ず最高の洗濯局を作り上げてみせますよ。私の給料、さらに三倍になりますか?」


「お前という女は……! ああ、わかった。その……成果次第で、いくらでも払ってやる」


 伯爵は、今日二度目の笑みを漏らした。

 その時。


「――ロドアス様! こんなところにいらしたのね!」


 甲高い、美を詰め込んだような声が響いた。

 現れたのは、見事な縦ロールに巻かれた金髪、そして見るからに高価な、孔雀の羽根をあしらったドレスを纏った美女だった。


 彼女が近づいてくるなり、伯爵の顔は一瞬で、いつもの氷のような不機嫌顔に戻った。


「……カトリーヌか。貴族の令嬢が、このような煤臭い場所へ何用だ」


「あら、冷たい。ボルドー子爵家のバラ園でお会いして以来ですわね。あなたの成功、社交界でもっぱらの噂ですわよ。……それで? そちらの……妙な格好をなさっている方は、どなた?」


 カトリーヌと呼ばれた女性の視線が、私に向けられた。

 彼女の目は、私を人間としてではなく、道端に転がっている石ころを見るような、どこか懐かしい冷酷な光を湛えていた。


「私の大事な……」


 伯爵が言いかけた言葉に、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。


「……ビジネスパートナーだ」


 パートナー。

 その言葉の響きに、カトリーヌは嘲笑するように扇を広げた。


「ビジネスパートナー? おほほ、ロドアス様もお人が悪いわ。こんな、労働者のような汚れた手の娘を、パートナーだなんて。……そういえば、没落したサン・ピエール家の三女が、使用人としてどこぞの屋敷に潜り込んだという噂を聞きましたわ。まさか、ねえ?」


 私は、自分の手をそっと隠した。

 確かに私の手は、石鹸で荒れ、爪の間には消えない労働の痕跡がある。彼女の真っ白で滑らかな手とは、対極にあるものだ。


 けれど、その時。

 ロドアス伯爵が、迷いなく私の手を取った。


「カトリーヌ。貴様のその白く美しい手は、一体、何を生み出した?」


「……えっ?」


「このミレリアの手は、俺の事業を救い、現場の損失を防ぎ、新しい価値を作り出している。俺にとって、宝石で飾り立てられた無能な手など、何の価値もない。……失礼する。ビジネスの邪魔だ」


 伯爵は、呆然とするカトリーヌを置き去りにし、私の手を引いて歩き出した。

 

 力強い、けれど不思議と優しい掌の熱。

 私は、真っ赤になった顔を隠すように俯いた。


「……旦那様。今のは、少し言い過ぎではございませんか? あの方は有力な子爵家の……」


「黙れ。不快なものは不快だ。……それに」


 伯爵は、歩きながらボソリと呟いた。


「……そのルビーのペンダント。お前の汚れた手には、どんな名家の令嬢よりも似合っている」


 心臓が、耳元でうるさいほど鳴っていた。

 お姉様、お母様。

 どうやら、私の「労働」は、いつの間にか、とんでもない方向に転がり始めているようです。


 資本の時代。実力の時代。

 私は繋がれた手の温もりから逃げ出すこともできず、ただ前を見つめて歩き続けた。

 そこには、精霊砂の煙の向こうに、見たこともないほど眩しい未来が広がっていた。


────


 その夜、サン・ピエール家の屋敷。


「ミレリア! 伯爵様があなたの手を!? 公衆の面前で!? まあ♪」


 お母様が椅子からひっくり返りそうになり、アリア姉様は「勝ったわ!」と叫びながらシャンパングラス(中身はただの水だが)を掲げた。


「ほら、言ったでしょう! 労働も大切だけど、最後にモノを言うのは女の魅力なのよ!」


「違うの、お姉様。旦那様はただ、私の『仕事』を評価してくださっただけで……」


「いいのよ、いいの。きっかけなんて何でも! さあ、明日はもっと素敵なリボンを用意しましょう。ゼナ、あなたのその香水、まだ残っているわね?」


 賑やかすぎる家族の笑い声を聞きながら、私は自室の机に向かった。

 手には、先ほど伯爵に渡された「洗濯局」の予算案。


 恋だの愛だのと浮かれている暇は微塵もない。

 私には、洗わなければならない世界が、山ほどあるのだから。


 私は不安ながらも、どこか幸せな溜息をつきながら、明日への戦略を練り始めた。

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