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没落寸前令嬢の私は、伯爵のお屋敷でお洗濯係を拝命いたしました。  作者: 逆立ちハムスター


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3

 洗濯係としての生活が始まって、はや二週間。

 私の生活リズムは、完全に「太陽と石鹸」に支配されるようになった。


 朝、男爵家の自活用の鶏が鳴く前に起き、質に入れ忘れた、古いドワーフ製のアイロンを温める。鶏たちを飼うのは私の案で、ゼナ姉様の婚約者の商人から試しにと、快く譲ってもらった鶏たちだ。成金で嫌味な人だと思っていたけれど、事業への後押しは、驚くほど献身的だった。母や姉様たちは最初反対だったけれど、それで実入りが増えてくると、苦言もどこかしら減ってきている気がした。ゼナ姉様が、婚約者の仕事に、少しでも興味を持ってくれれば……。


 そう思いながら、母と姉様たちがまだ夢の中で「かつての栄光」を追いかけている間に、私は鶏達に餌をやり、男爵家の屋敷を後にする。この二週間で、私の指の腹はすっかり硬くなり、爪の間には石鹸の香りが染み付いて取れなくなった。


 けれど、それは私にとって、どんな高価な宝石よりも確かな「生きた証」だった。


────


「……おはようございます、マーサさん」


 伯爵邸の勝手口で挨拶をすると、家政婦長のマーサさんは、以前のような露骨な冷たさではなく、どこか「観察」するような目で私を見た。


「おはよう。今日は、お急ぎの品があるわ。旦那様が午後から新路線の開通式典に出席される。その際に着用する予定の、白いシルクのベストよ。……昨夜、旦那様が執務室でインクを零されたそうなの。落とせる?」


「やってみます。シルクなら、こすらずに叩き出すのが鉄則ですね」


「……わかっているじゃない。頼んだわよ」


 私はベストを受け取り、いつもの洗濯場へ向かった。

 そこにはすでに、ロドアス伯爵の「日常」が詰まった籠が置かれていた。

 

 最近、私は洗濯物を通じて、伯爵の生活や心理状態が透けて見えるようになってきた。

 例えば、彼が事業の難題に直面している時は、シャツの袖口に細かなペン先の跡が増える。悩みながらペンを回しているのだろう。

 逆に、現場の視察で忙しい時は、裾に特有の黒い「精霊砂」がびっしりと付着している。


 今日のベストは、確かに胸元に大きなインクの染みがあった。

 けれど、それ以上に気になったのは、そのベストから微かに漂う、張り詰めたような緊張の匂いだ。


 私は、冷水に少量のアルコールと、秘密の「特製油汚れ用洗剤」を混ぜた。これは母のドレッサーに眠っていた、もう使われなくなった古い口紅を落とすための溶剤を応用したものだ。


 トントン、とリズムよく叩く。

 インクがじわりと浮き上がり、清潔な布に移っていく。

 

 その時、洗濯場の入り口に影が落ちた。


「――また貴様か」


 振り返らなくてもわかる。低く、少しだけ不機嫌そうな、けれど透明感のある声。

 私は作業を止めずに、背中で答えた。


「おはようございます、旦那様。今、式典用のベストを仕上げております。少々お待ちください」


「……なぜ貴様は、俺が来ても作業を止めない。普通なら手を止め、頭を下げるべきだろう」


 ロドアス伯爵が、私の真後ろにまで近づいてくるのがわかった。

 私は手を動かし続けながら、静かに言った。


「失礼を承知で申し上げます。今、この瞬間に手を止めてしまえば、浮き上がったインクが再び繊維に定着してしまいます。それは旦那様の『最高の装い』に対する損失となります。優先すべきは、私の礼儀ではなく、旦那様の利益ではないでしょうか」


「……ふん。合理性を盾にした無礼だな」


 伯爵は、私の隣にある木製のベンチに腰を下ろした。

 主人がこんな湿っぽい洗濯場に長居するなど、本来ならあり得ないことだ。

 けれど彼は、じっと私の手元を見つめていた。


「……ミレリア。貴様の家、サン・ピエール男爵家は、かつて王室御用達の絹織物を扱っていたはずだ。血統としては申し分ない。……そんな家の娘が、なぜそこまで『労働』に執着する。没落したとしても、他にやりようはあったはずだ。資産を切り売りし、有力な商人に嫁げば、一生働かずに済んだだろう」


「おっしゃる通りです。実際、お母様と姉様たちは、今でもその道を模索しています」


 私は、インクが完全に消えたことを確認し、真水で丁寧に濯ぎながら続けた。


「けれど、私は気づいてしまったのです。誰かに与えられる『地位』や『暮らし』は、その誰かの気分一つで崩れ去る、砂の城でしかないことに。……父が遺した借金。それを返せなかったのは、私たちが『自分たちで価値を生み出す方法』を知らなかったからです」


 私は手を止め、濡れたベストを慎重に広げた。

 真っ白な生地が、朝の光を反射して輝いている。


「私は、自分の腕で稼いだ銀貨の方が、誰かに施された金貨よりも、ずっと重みがあると感じるのです。……旦那様も、そうではありませんか?」


 私は初めて、彼の瞳を真っ直ぐに見た。

 

 ロドアス伯爵は、虚を突かれたような顔をした。

 彼の瞳は、冷徹な実業家のそれではなく、どこか傷ついた子供のような、戸惑いを含んでいた。


「……俺は、血統など信じていない。信じられるのは、数字と、効率と、目の前の現実だけだ」


「はい。だからこそ、私はここで働いています。旦那様が数字と向き合う時間を、少しでも快適にするために」


 伯爵は立ち上がり、何かを言いかけて……口を閉ざした。

 そして、私のあかぎれだらけの手を、一瞬だけ盗み見るように視線を落とした。


「……三十分後だ。執務室に持ってこい。式典に遅れたら、貴様の給料から差し引く」


「承知いたしました」


 彼は翻り、足早に去っていった。

 

────


 午後。伯爵が式典へと出かけた後、私は少し遅めの昼食を摂るために、屋敷の裏手にある小さな庭に座っていた。

 伯爵邸の賄い飯は、我が家の「香りだけの食事」に比べれば、贅沢すぎるほど豪華だ。

 

 そこで、届いていた一通の手紙を読む。

 差出人は、遠出している長女のアリア姉様だ。


『愛々しいミレリアへ。

 その後、お洗濯生活はどう? あなたの美肌が台無しになっていないか、お母様やゼナと同じく、毎日心配しています。

 実は昨日、かつての王立舞踏会で知り合ったボルドー子爵夫人のご紹介で、素晴らしい方とお会いしたの。

 エドワルド様というのだけれど、彼は「没落した貴族こそが、真の伝統を守る」という崇高な思想をお持ちなのよ。今はまだ事情があって資産が凍結されているらしいけれど、近いうちに必ず回帰するとおっしゃっていたわ。

 私は、彼こそが私たち貴族の救世主になると確信しています。

 だからミレリア、あなたも焦らなくていいのよ。伯爵様との仲が進まないなら、いつでも家に帰って、元の生活を楽しみなさい。また、エドワルド様には、素敵な弟様もいらっしゃるそうだから!』


「…………はぁ」


 私は、深く、深いため息をついた。

 アリア姉様。「資産が凍結されている」という言葉は、大抵の場合「一文無し」の同義語だ。

 「回帰する貴族」を見極めていると言いながら、彼女は結局、甘い言葉で自分たちを肯定してくれる「過去の亡霊」に捕まっている。

 彼女たちの愛は本物だ。けれど、その愛が向かっている方向は、崖っぷちに向かって全速力で走る馬車のようだった。最近は、泥棒貴族が増加し始め、商隊の傭兵と争っているという噂も飛び交っている。傭兵たちは磨かれ、手入れの行き届いた鎧や剣。それに対して貴族たちは……。とても分が悪い。


お姉様……せめて、そのエドワルド様とやらが、詐欺師でないことを祈るわ。


 私は手紙を畳み、エプロンのポケットに大切にしまった。

 家族を救いたい。けれど、彼女たちが望む「救い」と、私が掴もうとしている「自立」と、決して交わることがないのかもしれない。

 そんな寂しさが、胸の奥をチリリと焼いていく。


────


 数日後。伯爵邸に大きな激震が走った。

 

 ロドアス伯爵が進めていた「馬車輸送網の統廃合」に対し、旧来の運送ギルドが猛反発し、ストライキを起こしたのだ。時代の流れに不満なのは、当然、貴族たちだけではない。職や権威を失うかもしれないとなれば、多くの人々が反発するだろう。


 石炭鉱山から港へ続く唯一の街道が封鎖され、精霊砂の出荷が止まってしまった。

 

 屋敷の中は殺気立っていた。

 執務室からは、伯爵の怒鳴り声……ではなく、逆に不気味なほどの静寂が漏れ出していた。

 

 私は洗濯場から、慌ただしく出入りする秘書や御者たちの姿を見ていた。

 

(輸送経路のコスト削減……。旦那様は、無駄を極限まで削ぎ落とそうとしている。けれど、その「無駄」の中に生きていた人たちが、今度は旦那様の足を引っ張っている……)


 私は、洗濯をしながら考えていた。

 洗濯も同じだ。効率を求めて一度に大量の衣類を脱水機にかければ、細かなシワが寄り、結局アイロンがけに倍の時間がかかる。

 「流れるべきもの」が止まった時、どうすれば一番スムーズに再開できるか。


────


 夕刻。私は執務室に籠もりきりだという伯爵のために、新しいシャツを届けに行くことにした。

 本来はマーサさんの仕事だが、彼女も混乱した厨房の指揮で手が離せないようだった。


 執務室のドアを軽く叩く。

 けれど返事はない。しかし、中に確かに気配がある。


「失礼いたします、旦那様。お着替えをお持ちいたしました」


 中に入ると、そこは書類の海だった。

 巨大な地図が机に広げられ、ロドアス伯爵は髪をかき乱した状態で、一点を見つめていた。


「……ミレリアか。言ったはずだ、今は手が離せないと」


「お着替えを置いていくだけでございます。……それと、これを」


 私はシャツと一緒に、小さな包みを置いた。

 中身は、庭のミントとレモンの皮を、熱いお湯で抽出した自家製の「気付け薬」のような飲み物だ。


「……毒か? それとも、媚薬か?」


「ただのハーブティーです。脳の血流を良くし、視界をクリアにする効果があります。……旦那様、一つだけ、お洗濯の知恵をお話ししてもよろしいでしょうか」


 伯爵は、忌々しそうに私を睨んだが、あまりの疲労からか、反論する気力もないようだった。


「……はぁ、言ってみろ。どうせ、ろくでもないことだろうが」


「はい。頑固な詰まりを解消する時、無理に押し流そうとすれば、管が破裂してしまいます。そんな時は、一度、逆方向に水を流すのです。……そうすれば、詰まっていた原因が浮かび上がり、自然と道が開けます」


「ハハハ、面白いな。まだ言うことがあるのか?」

乾いた笑いと、呆れた声。


「はい。旦那様は今、街道を通そうと必死になっておられますが、あえて『街道を使わないルート』……例えば、今は使われていない古い運河や、山越えの小道に、一時的に全ての資本を集中させると宣言してみてはいかがでしょうか。ギルドの人々は、自分たちが『唯一の道』を握っていると思っているから強気なのです。その前提を崩せば、彼らの方から交渉に来るはずです」



 伯爵の手が、止まった「間抜けではなかったか」伯爵は、ハッとしたように地図に目を落とした。

 

 しばらくの沈黙。

 

 部屋の中に、ハーブティーの爽やかな香りが広がっていく。

 伯爵は、ゆっくりとカップを手に取り、一口飲んだ。


「…………貴様は、本当に洗濯係か?」


「はい。それも、かなり優秀な部類だと自負しておりますよ♪」


 伯爵は、ふっと……今度ははっきりと、声を漏らして笑った。

 それは、私が初めて見る、彼の年相応な、そして心からの笑顔だった。


「……逆方向に流す、か。面白い。ミレリア、貴様のその『洗濯の知恵』、もし上手くいったら……」


「給料を上げてくださいますか?」


「……ふん。現金な女だ。いいだろう、特別ボーナスを検討してやる」


 伯爵は、憑き物が落ちたような顔でペンを取った。

 

 私は深く一礼し、執務室を後にした。

 

 扉を閉めた後、私は自分の胸が高鳴っていることに気づいた。

 それは、彼に褒められたからではない。

 「労働」と「知恵」が、確かな力となって、この世界の歯車を動かした。その実感が私を震わせていたのだ。


 廊下を歩きながら、私はふと、エプロンのポケットにある姉様の手紙に触れた。

 

 お姉様。

 回帰する貴族を待つよりも、今ここで、新しい風を起こす方が、ずっとずっと刺激的です。

 

 私は自分の荒れた指先を愛おしく思いながら、夕闇の迫る洗濯場へと急いだ。

 明日の朝には、きっとまた山のような汚れ物が私を待っている。

 それを一つずつ、丁寧に、完璧に洗い上げること。

 それが今の私の、最高に誇らしい「特権」なのだから。


 窓の外では、精霊砂の街灯が、今までよりも少しだけ明るく、輝き始めているように見えた。

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