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翌朝、私の全身は悲鳴を上げていた。
ベッドから起き上がろうとしただけで、背中から腰にかけて鋭い痛みが走り、指先は昨日使った強い石鹸のせいで白く粉を吹いている。貴族の令嬢として過ごしてきた十八年間で、私の体は「労働」という概念を全く学習していなかったらしい。
「……っ、痛い〜。でも……動かなきゃ」
鏡を見ると、そこには目の下に薄い隈を作った、およそ令嬢とは思えない娘が立っていた。
かつては毎朝、侍女が用意してくれたバラの香りの湯で顔を洗い、最高級の乳液で肌を整えていた。けれど今の私にそんな余裕は微塵もない。台所の隅にある冷たい水で顔をバシャバシャと洗い、姉様たちに隠れてこっそり持ち出した安物の軟膏を指先に塗り込む。
「ミレリア、もう行くの? まだ夜も明けたばかりよ」
寝ぼけ眼で部屋から出てきたのは、次女のゼナ姉様だった。
彼女は透けるようなネグリジェを纏い、眠たそうに目を擦っている。その姿は、没落寸前の家とは思えないほど優雅で、どこか浮世離れしていた。
「ええ、お洗濯係の朝は早いの。昨日の分を乾かして、アイロンをかけなきゃいけないから」
「信じられない。あんなジャガイモみたいな商人の婚約者でさえ、私に朝帰りを強いるようなことはしないわよ。もっとも、あの人は仕事中毒で私への興味がなくなってきただけかもしれないけれど。ミレリア、そんなに無理をして、もし倒れたりしたら……伯爵様に抱きかかえられるチャンスを逃してしまうわよ?」
「……姉様、私は看病されに行くわけじゃないの。お給料をいただくために行くのよ」
姉様の心配の方向性が相変わらず「玉の輿」に向いていることに苦笑しつつ、私は家を出た。
朝の空気は冷たく、肺の奥まで清めてくれるような気がした。ささっと硬いパンを貪り食べて、出掛ける。
────
伯爵邸の洗濯場に到着すると、家政婦長のマーサさんはすでにそこにいた。
彼女は私が昨日洗い上げたシャツの山を、一枚一枚、恐ろしいほどの早さで検品している。
「……おはようございます、マーサさん」
「来たわね。一晩寝て、逃げ出すかと思ったわ」
マーサさんは顔を上げず、厳しい声を出す。そして、最後に手に取った一枚――伯爵が昨日着ていたであろう、最高級の綿シャツを光にかざした。
「……ふん。襟元の皮脂汚れ、完璧に落ちているわね。それに、この香り……石鹸だけじゃないわね。何を混ぜたの?」
「お庭の隅に生えていたレモンバームの葉を少しだけ。伯爵様は石炭の匂いが立ち込める場所でお仕事をされているようでしたので、少しでも爽やかな香りが残ればと思いまして」
マーサさんは少しだけ目を見開いたが、すぐにまた冷ややかな表情に戻った。
「余計な真似を。旦那様は合理性を好むお方よ。洗濯に『情緒』なんて求めていないわ」
「そうかもしれません。ですが、清潔であることと、快適であることは、仕事の効率に直結するはずです。これは情緒ではなく、伯爵様の『資本』である時間を有効活用していただくための工夫です」
私がそう答えると、マーサさんは鼻で笑った。
「資本、ね。没落したとはいえ、腐っても貴族ということかしら。……いいわ、今日の分も山のようにあるわよ。それと、今日はこれを特別に任せてあげる」
彼女が差し出したのは、重厚な黒いウールのコートだった。
あちこちに黒い煤がこびりつき、独特の油のような匂いがする。
「これは旦那様が昨日、鉱山の視察で着ていたものよ。普通の洗い方じゃ落ちないわ。かといって生地を傷めれば、あなたの給料一年分でも足りない。……どうする? 怖気づいたなら、そこに置いときなさい」
「いえ、やらせてください!」
私はそのコートを受け取った。重い。けれど、この重みこそが、ロドアス伯爵が背負っている事業の重みそのものであるような気がした。
────
洗濯場に籠り、私は格闘を始めた。
煤汚れは、単なる泥汚れとは違う。油分を含んでいるため、水と石鹸だけでは太刀打ちできない。
私は、かつて父の書斎で読んだ古い書物の知識を総動員した。貴族の教養というのは、意外なところで役に立つものだ。隅に置かれた使い古されている錬金台と材料達。瓶にはホコリやぬめりがあるが、気にせず調合する。特定の植物の根を煮出した汁と、弱めのアルカリ粉を混ぜ合わせ、布地を傷めない温度のぬるま湯で、叩くようにして汚れを浮き上がらせる。
腰が痛い。指先のあかぎれが、湯に触れるたびに鋭く刺す。
けれど私は洗濯に集中した。
(このコートを着て、あの人は暗い鉱山の中にいたんだわ……)
ロドアス伯爵は、父から譲り受けた赤字続きの鉱山を、自らの才覚で立て直したという。
「精霊砂」の発見。それは幸運だったかもしれないが、それを輸送するための馬車サービスを統合し、コストを削減する仕組みを作ったのは、彼の純粋な実力だ。
血統という動かない土台の上に胡坐をかくのではなく、流動する資本の海に飛び込み、自ら舵を取る。下級貴族の私たちを雇うのも、きっとまだ反抗を続けている反乱貴族達への体面を保つ為だろう。それでも構わない。まともな仕事が得られるのなら、私は満足だった。
そして、その生き方は、私の母や姉たちが信じている「貴族の理想」とは正反対のものだ。
「……よし、落ちた」
数時間の格闘の末、頑固な煤汚れは消え去り、コートは本来の気品ある黒を取り戻していた。
私はそれを丁寧に脱水し、風通しの良い日陰に干した。
ふう、と息をついて、笑顔で額の汗を拭ったその時。
「――何を笑っている?」
まただ。
低く、少しだけ硬い声。
振り返ると、そこには上着を脱ぎ、ワイシャツ姿のロドアス伯爵が立っていた。
執務の合間なのか、少しだけ疲れたような表情をしている。
「……旦那様。申し訳ありません、笑っていたつもりはなかったのですが」
「いや、笑っていた。煤だらけの顔で、気味の悪いほど満足げにな」
そう言われて、私は咄嗟に自分の頬に触れた。確かに、洗っている最中に跳ねた煤がついていたかもしれない。
「失礼いたしました。……汚れが綺麗に落ちたのが、嬉しくて」
「……たかが、汚れだろう。明日にはまた汚れる。無駄な労力だとは思わないのか?」
伯爵は、干されたばかりの自分のコートを見つめながら、吐き捨てるように言った。
その瞳には、何かを試すような、あるいは拒絶するような光が宿っている。
「無駄ではありません。明日汚れるからこそ、今日、最高に清潔な状態で袖を通していただきたいのです。旦那様がお仕事をされる際、一瞬でも『汚れ』のことが頭をよぎれば、それは旦那様の思考を妨げる損失になります」
「……損失?」
「はい。私は旦那様の事業の細かなことは分かりません。ですが、旦那様の『時間』が何よりも貴重な資本であることは理解しています。私の仕事は、お洗濯を通じて、その資本を守ることだと考えております」
伯爵は、絶句したように私を見つめた。
これまでに彼に近づいてきた令嬢たちは、きっと、彼の「財産」や「地位」や「外見」を褒めそやしてきたのだろう。
けれど、目の前の、煤だらけで手を荒らした私は、本心で彼の「仕事」と「時間」の話をしている。
「……おかしな令嬢だと言ったが、あれは訂正する。貴様は狂ってる」
「最高の褒め言葉として受け取っておきます」
私は、あえて令嬢らしい優雅なカーテシーを披露した。
ボロボロのエプロンを纏い、顔に黒い汚れをつけた姿でのそれは、滑稽以外の何物でもなかっただろう。
けれど、伯爵の口角が、ほんの一瞬だけ、ぴくりと動いたのを私は見逃さなかった。
「……ミレリアと言ったか。そのコート、もし傷一つでもついていたら、その時は覚悟しておけ」
「はい。万が一のことがあれば、私の生涯をかけて、このお屋敷でお洗濯をし続けます」
「……借金のカタに労働を売るというわけか。どこまでも現実的な女だ」
伯爵は、どこか呆れたように、けれど昨日よりも少しだけ軽い足取りで、執務室の方へと戻っていった。
────
その日の帰り道。
私は、昨日ゼナ姉様にもらった「特製フェロモン香水」の小瓶を、路地裏のゴミ箱に捨てようとして……思いとどまった。
捨てるのは簡単だ。けれど、姉様がこれをくれたのは、彼女なりの切実な愛だった。
彼女たちは、時代の変化に追いつけない。追いつけないからこそ、過去の遺物である「女の武器」を私に託した。
それは間違っているけれど、無価値ではない。
私は小瓶を鞄の奥に戻し、夕暮れの街を歩いた。
通りでは、新しい時代の匂いがしていた。
精霊砂を燃料にした街灯が灯り始め、鉄の馬車が蒸気を吐き出しながら走り去る。
家に着くと、案の定、お母様とアリア姉様が待ち構えていた。
「おかえりなさい、ミレリア! どうだった? 今日の成果は?」
お母様が期待に満ちた目で私の手を取る。
「……あら、嫌だわ! この手、なんてこと! これじゃあ、伯爵様に手を取られた時、幻滅されてしまうじゃない! 酷い仕事ね」
「お母様、大丈夫です。伯爵様は私の手なんて見ていませんから。……ただ、少しだけ、私の仕事を見てくださったような気がします」
「仕事? そんなもの、使用人に任せておけばいいのよ。あなたは『令嬢』としての仕事を全うしなさいと言ったでしょう?」
アリア姉様が溜息をつきながら、私の乱れた髪を整えてくれる。
「ミレリア、あなたはまだ若くて可愛いけれど、時間は残酷なのよ。没落貴族に残された時間は、砂時計の最後の一粒のようなもの。それを洗濯板にぶつけるなんて、とんでもない。もったいないわ」
「……姉様。私、思うんです。砂時計の砂が落ち切る前に、新しい砂を自分で作り出せるようになれば、時間は永遠に続くのではないかって」
「……新しい砂? 何を言っているのミレリア? あなた、やっぱり少し疲れているのね。今日はもう早くお休みなさい。そして明日こそは、私のルビーのペンダントを、もっと目立つ位置につけるのよ?」
家族の温かな、けれどどこか空虚な優しさに包まれながら、私は桶の水で軽く体を洗ったあと、自分の部屋へ向かった。
枕元に置いた鏡には、あかぎれだらけの自分の手が映っている。
痛いけれど、どこか誇らしかった。
私は、ドレスを着て舞踏会で踊る自分よりも、石鹸の泡にまみれて伯爵のコートを洗っている自分の方が、ずっと「生きている」と感じていた。
特権という名の揺り籠を捨て、私は今、実力という名の荒野に立っている。
明日もまた、朝が来れば、私は洗濯場へ向かうだろう。
あの不器用で、孤独な事業家――ロドアス伯爵の、貴重な「時間」を支えるために。
その夜、私は泥のように深い眠りに落ちた。
夢の中で、私は真っ白なシャツを旗のように掲げ、資本の荒波を突き進む巨大な船に乗っていた。
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一方、その頃。
ロドアス伯爵は、自室の椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めていた。
その指先には、一通の報告書があった。
「……サン・ピエール家の三女、ミレリア。生活費を稼ぐために、自ら志願して当家の洗濯係に応募、か」
報告書には、彼女の家の悲惨な財政状況が記されている。
他の没落貴族と同様、何とかして有力者にすり寄ろうとしている家族たちの動向も。
「……普通なら、媚を売るか、同情を引こうとするものだが。あの女、本当に一度も俺の顔をまともに見ようとしなかったな」
彼の脳裏に焼き付いているのは、倒れそうになりながら、自分よりも「洗濯物の籠」を優先して守った、あの奇妙なミレリアの姿だった。
そして、先ほど届けられたばかりのコート。
煤汚れ一つなく、生地は驚くほどふっくらと仕上がり、かすかにレモンのような清涼感のある香りがしていた。
彼はそのコートの袖をそっと撫でた。
「……資本、か。馬鹿げている。だが……」
ロドアスは、自嘲気味に笑った。
かつて彼を裏切り、金のために他の貴族へと走った恋人の記憶が、その爽やかな香りに上書きされていくような、不思議な感覚。
明日は、どんな顔で洗濯をするつもりだ。ミレリア。
不機嫌そうな皺は、依然として彼の眉間にあった。
けれど、その奥に潜む孤独な瞳は、かつてないほどの好奇心で小さく輝いていた。
時代の歯車が音を立てて回り始めていた。
血統の重みに縛られた令嬢と、実力の孤独に耐える伯爵。
二人の距離は、まだ、洗濯桶を挟んだ「雇用主と使用人」でしかなかった。




