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「あら、ミレリア。そんな泥棒が被るような布切れを頭に巻いて、一体何の冗談かしら?」
我が家の朝食会は、いつだって優雅な皮肉と、それに見合わないほど質素なパンの切れ端から始まる。
銀色に輝くはずのティーポットは、先月、ついに中身の茶葉ごと質に入れられた。今、私たちが啜っているのは、庭に生えていたミントを適当に煮出した「香りだけは良いお湯」である。
そんな食卓の主役は、我が母アノレノだ。
四十歳という年齢を感じさせない艶やかな金髪を、召使もいないのに器用に結い上げ、背筋をピンと伸ばして座っている。彼女が身に纏っているのは、十年前の流行遅れとはいえ、最高級のシルクで作られたアフタヌーンドレスだ。
「お母様、これは泥棒の被り物ではなく、三角巾です。今日から私は、ロドアス伯爵邸でお洗濯係として働くのですから」
私がきっぱりと言うと、隣に座っていた長女のアリア姉様が、真珠のような溜息をついた。
彼女は二十五歳。かつては「社交界の至宝」とまで謳われた美貌の持ち主だ。婚約者だった侯爵家が没落してからは、次の「投資先」を探すのに余念がない。
「ミレリア、あなたはまだ分かっていないのね。労働なんていうのは、平民が生きるために仕方なく行う『義務』であって、私たち貴族が選ぶ『選択肢』ではないのよ。せっかく伯爵邸に入り込めるのなら、お洗濯なんて地味なことをしていないで、もっとこう……伯爵の視界に滑り込むような、劇的な出会いを演出しなさいな」
「そうよ、ミレリア」
二十歳の次女、ゼナ姉様も同意するように頷く。
彼女は母のアドバイスに従って、新興勢力である豪商との婚約を取り付けたばかりだ。しかし、そのお相手というのが、お世辞にも美男子とは言えず、さらに成金特有の傲慢さを煮詰めたような性格をしているらしい。最近流行の、爵位を金で買う人達だ。相手は爵位が欲しくて仕方ないらしい。できれば美人な妻もと。
「私の婚約者のような、顔がジャガイモに似た男ならまだしも、今度の伯爵様は若くてかっこよく独身。おまけに石炭と輸送事業で大成功を収めている、今やこの国で最も勢いのあるお方だっていうじゃない。お洗濯で指をふやけさせている暇があったら、わざと伯爵の目の前で転んで、その靴に最高級の香水でも振りまいてきなさい」
「……アドバイスありがとうございます。でも、伯爵邸の床で転んだら、きっとそのまま不審者として守衛に突き出されるだけだと思います」
私は、お湯でふやかした硬いパンを口に放り込んだ。
私たち、サン・ピエール男爵家は、今や「没落」という坂道を転がり落ちる寸前にある。
父が遺した莫大な戦時借金。父は最期まで貴族の地位を守ろうと戦ったが、多くの貴族同様、資本の時代の波には勝てなかった。広大だった領地は切り売りされ、今は街の片隅に建つ、壁の塗装が剥げ落ちた、旧屋敷だけが残っている。なんとか、例のジャガイモ……いえ、実業家がこの土地と屋敷の担保を肩代わりしてくれた。雨風を凌げるという、ギリギリである。
それでも、母と姉たちは変わらない。
彼女たちは、血統こそが絶対であり、いつか必ず「高貴な誰か」がこの窮地を神のごとく救ってくれると信じて疑わないのだ。また貴族の特権の時代が戻ってくると。
それは、彼女たちの「誇り」であり、同時に、現実から目を逸らすための「麻薬」でもある。
けれど、私は知っている。
街に出れば、馬車に代わって「精霊砂」を動力源とした新型の機械式運搬車両が走り、貴族の紋章よりも、商会の印章の方が重んじられる時代が来ていることを。御者たちは、必死に新たな時代にしがみつこうと努力している。
もはや血の濃さでパンは買えない。ならば、汗を流して金を稼ぐしかないのだ。しかし、一番の問題は母や姉達ではなく、法だ。働いた瞬間に爵位は失われてしまう。それが、多くの生き残った貴族達の首を完全に絞めている。2000年以上続いた伝統を捨て、新たな時代に身を投じる。それは並大抵のことでは出来ない。それは理解できる。でも、もう時間がないのだ。貴族という概念は消えかけている。まさに風前の灯火に等しい。
「ミレリア、これを。あなたに。私の宝物だけど、これからのあなたには必要だわ」
食事が終わると、アリア姉様が自分の首から、細い金鎖に吊るされた小さなルビーのペンダントを外して、私の手に握らせた。
それは、彼女が唯一質に入れずに残していた、亡き父からの贈り物だ。
「姉様、こんな大切なもの、受け取れません」
「いいのよ。伯爵様にお会いする時、胸元が寂しいと女が廃るわ。お洗濯なんていう野蛮な仕事をさせられるんだから、せめて心だけは貴婦人でいなさい」
「そうよ、これもお持ちなさい。私の特製調合香水よ。商人の彼にはありきたりで全く効かなかったけれど、伯爵様なら、あるいは……!」
ゼナ姉様も、怪しげな琥珀色の小瓶を押し付けてくる。
母は、私の労働着――といっても、古いドレスを改造した粗末なものだが――の襟元を丁寧に整え、私の頬を包み込んだ。
「ミレリア。あなたは、私たちの自慢の家族よ。そんな泥臭い場所に身を置くのは、きっと、アスクロノリュフィア(運命の女神)様が与えた試練に違いないわ。……いい? 隙あらば、婚約を取り付けてくるのよ。それが、あなたが貴族として生き残る為にできる、最大の『仕事』なんだから」
「……い、行ってきます、お母様。お姉様達」
三人の瞳には、一点の曇りもない愛情と、救いようのない期待が宿っていた。
彼女たちは本気で、私のことを心配し、慈しんでいるのだ。その手段が「玉の輿」一点張りであるという点を除けば。
私はルビーのペンダントをエプロンの奥深くに隠し、香水の小瓶を鞄の隅に押し込んで屋敷を出た。
目指すは、丘の上に建つ、黒煙と栄華の城。
ロドアス伯爵邸。
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ロドアス伯爵邸の門をくぐった瞬間、私は別世界に迷い込んだような錯覚に陥った。
我が家の、時が止まったような静寂とは正反対の、猛烈な「熱気」がそこにはあった。
庭園には精巧な自動散水機が設置され、石炭を燃やす微かな匂いが風に乗って漂ってくる。行き交う使用人たちの足取りは速く、誰もが自分の役割を完璧に理解しているような、無駄のない動きをしていた。
「――それで? あなたが今日から働くことになった、没落……失礼、サン・ピエール家の令嬢ね」
目の前に立つのは、家政婦長のマーサさんだ。
彼女の視線は、私の頭の先からつま先までを、まるで品評会のカトブレパス(牛)でも見るような厳しさで走査した。
「はい。ミレリア・サン・ピエールです。本日から、お洗濯係として拝命いたしました。よろしくお願いいたします」
私が深く頭を下げると、マーサさんは鼻で笑った。
「令嬢。おかしな幻想は捨ててちょうだい。ここには、あなたの手を取ってエスコートしてくれる騎士様も、お茶を運んでくれる侍女もいないわ。あるのは、山のような汚れ物と、石鹸のアルカリで荒れる指先だけよ」
「望むところです。私は、働くためにここに来ました」
「ふん、口だけは達者ね。これまでに言い寄ってきた下級貴族の娘たちも、みんな最初はそう言ったわ。でも、三日も経てば爪が割れただの、腰が痛いだのと泣き言を言って、旦那様の執務室へ紛れ込む隙をうかがい始めるのよ」
マーサさんの言葉には、深い蔑みが混じっていた。
どうやら、ロドアス伯爵――ロドアス・フォン・ハインツという男は、よほど女性関係で苦労しているらしい。
噂によれば、彼はかつて社交界で手酷い失恋を経験し、それ以来、女性……特に、自分を金づるとしか見ていない貴族の令嬢たちを、蛇蝎のごとく嫌っているという。
皮肉な話だ。母や姉たちが私に託した「ミッション」は、既に崖っぷち。最も難易度が高い、というか、伯爵の逆鱗に触れる最短ルートなのだ。
「いい? 旦那様は、仕事のできない人間を最も嫌うわ。そして、色目を使う女をその次に嫌う。あなたがここで一週間持ちこたえられたら、少しは見直してあげるわ」
「……一週間ですね。分かりました」
案内された洗濯場は、建物の裏手にあった。
そこには、私の身長ほどもある巨大な洗濯桶が並び、洗剤の香りをまとった蒸気がもうもうと立ち込めている。
最新式の脱水機や、蒸気を利用した乾燥室まで備わっている。だが、細やかなレースのハンカチや、デリケートな絹のシャツは、やはり熟練の「手」による洗濯が必要なのだという。
「今日の分よ。日が暮れるまでに終わらせて。一枚でも汚れが残っていたら、昼食抜きよ」
マーサさんが指し示した籠の中には、溢れんばかりの衣類が詰め込まれていた。
伯爵本人のものと思われる、上質な白いシャツ。
執務用の堅苦しい襟。
そして、なぜか石炭の粉で真っ黒になった作業着まで。
「…………よし、始めますか」
私は、ドレスの袖を思い切り捲り上げた。幼い頃から、自分で働いて稼ぐというのに憧れていた。
仕事があるってだけで、最高じゃない。
姉様からもらったルビーのペンダントが、胸元でチリリと鳴った。
それを服の中にしまい込み、私は目の前の石鹸を手に取った。
冷たい水。
鼻を突く石鹸の匂い。
そして、汚れを落とすために力を込める、腕の筋肉の震え。
これまで、刺繍の針よりも重いものを持ったことがなかった私の手は、またたく間に赤く染まっていった。
けれど、不思議と不快ではなかった。
汚れた水が、白く泡立ち、布の隙間から不純物を押し出していく。
その光景を見ていると、自分の心の中に溜まっていた、あの「没落への恐怖」や「未来への不安」までもが、一緒に洗い流されていくような気がした。
一枚、また一枚。
私は無心で手を動かした。
伯爵の顔も、姉たちのアドバイスも、没落した家の事情も、すべて頭から追い出した。
今、この瞬間の目的は、このシャツの襟元にある、頑固な油汚れを落とすこと。それだけだ。
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どれくらいの時間が経っただろうか。私が無心になって洗濯を続けていると。
「――おい。そこで何をしている」
低い声が背後から響いた。
驚いて振り返ると、そこには、一人の男が立っていた。
仕立ての良い最先端っぽい黒のスーツ。
夜の海のように深い紺色の瞳。
そして眉間に刻まれた、深い不機嫌の皺。
ロドアス・フォン・ハインツ伯爵だろう。
この屋敷の主であり、我が母たちから「最後の希望」と目されている男だ。母曰く、爵位を富で買い漁る偽称貴族が筆頭する中で、生き残りをかけた王族達により、国家の経済発展の為の特例として、一部のインフラ事業を担う従来の貴族達が、公的に爵位が認められているらしい。
王族達も財政難に陥っていて、いずれまた法を変えると母は言っていた。この特例は兆しなのだと。だが、どうもそうは思えない。王族から見れば、忠誠が微塵もない商人より、関係の深かった貴族をなんとか優遇させたい意志が垣間見える。でも根本的には王族達も、母や姉達と同じだった。王族は以前の自分たちの失敗(平民なら、いつまでも自分の忠実な部下でいてくれる」を信じていた)この特例優遇措置は決して回帰の兆しではなく、王族たちにとっても、自分たちの未来への生き残りをかけた政策に思える。
私は両手を泡だらけにしたまま、咄嗟に立ち上がろうとして……自分の足が、長時間の労働で感覚を失っていることに気づいた。
「っ……!」
ぐらり、と視界が揺れる。
姉様の「わざと転びなさい」という言葉が、呪いのように脳裏をよぎった。
だが私の体は、彼の方ではなく――
洗い終えたばかりの、真っ白なシャツを積み上げた籠を守るように、反対側へと倒れ込んだ。
べちゃり。
冷たい石畳に膝を打ち付け、私は痛みに顔を歪めた。
けれど、籠の中のシャツは無事だ。一枚も地面に触れていない。
「……よかった」
仕事を増やさなくて。
安堵の溜息をつく私を、伯爵は信じられないものを見るような目で見下ろしていた。
「……貴様。普通、そこは俺の方に倒れてくるものではないのか?」
「申し訳ありません、旦那様。せっかく洗い終えたお召し物を汚すわけには参りませんでしたので」
私は膝の痛みも忘れて、彼に深く頭を下げた。
濡れた前髪が顔にかかる。石鹸の泡が頬に付いているかもしれない。
令嬢としては、これ以上ないほど無様な姿だろう。
伯爵は、しばらくの間、無言で私を見つめていた。
その視線は鋭く、私の魂の奥底まで値踏みしているかのようだった。
「…………名前は?」
「ミレリアと申します。今日からお洗濯を仰せつかりました」
「ミレリア、か。……ふん」
伯爵は、鼻を鳴らすと、何も言わずに背を向けて立ち去った。
その去り際、彼が吐き捨てた言葉を、私は聞き逃さなかった。
「……妙な女だ」
それが私と伯爵の、本当の意味での「出会い」だった。
太陽はすでに西に傾き、洗濯場には冷ややかな影が伸びていた。
私は赤く腫れた自分の手を見つめ、少しだけ笑った。
お母様、お姉様。
期待されている「婚約」への道のりは、どうやら絶望的に遠そうです。
でも私は今日、生まれて初めて「自分の力」で何かを成し遂げたような気がします。それが何より心地よい。
明日もまた、洗濯をしよう。
この石鹸の香りが、今の私には、どんな高価な香水よりも誇らしく感じられるのだから。




