第9話 踏み込まない距離
ノアと私の間には、いつしか、一定の距離ができていた。
近すぎず、遠すぎず。
朝、川辺で湯気を見る。
昼、彼は薪を割り、私はそれを眺める。
夕方、湯小屋の前の切り株に、少し離れて座る。
言葉は、多くなかった。
「冷えてきた」
ノアが、それだけ言う。
「ええ」
私が、それだけ返す。
それで、終わる。
聖堂にいた頃なら、こんな会話は、会話とは呼べなかった。
人と接するということは、相手を理解し、相手に応えること。
私は、そう教わってきた。
相手の話を聞き、相手の悩みを引き受け、相手に答えを返す。
それが、人と関わるということだと思っていた。
けれど、ノアは、私の悩みを訊かなかった。
私が聖女だった頃の話も。
なぜ役目を返したのかも。
何ひとつ、訊かなかった。
私も、ノアが「やめたもの」を、それ以上は訊かなかった。
彼が話したくなったら、話せばいい。
互いの傷に、踏み込まない。
それが、いつの間にか、二人の間の約束のようになっていた。
ある夕方。
私は、ノアの隣に座って、谷を眺めていた。
「ノアさんは」
私は、ふと言った。
「私のこと、何も訊かないんですね」
ノアは、薪を見たまま答えた。
「訊いてほしいのか」
「……いえ」
私は、首を振った。
「むしろ、楽です。訊かれないのが」
「そうか」
「人と一緒にいると、いつも、何かを返さなきゃいけない気がしていました。相手の問いに、相手の期待に。でも……」
私は、言葉を探した。
「ノアさんといると、何も返さなくていい」
ノアは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「踏み込むと、相手は逃げ場をなくす」
低い声だった。
「だから、訊かない。話したくなったら、話せばいい。話したくなければ、それでいい」
私は、その言葉を、胸に落とした。
踏み込まないこと。
それは、無関心とは違った。
ノアは、私を見ていないわけではなかった。
私が冷えていれば、湯を勧めた。
私の手が震えていれば、白湯を置いた。
ただ、踏み込まないだけ。
私の領域を、侵さないだけ。
「……不思議です」
私は、呟いた。
「踏み込まれないのに、ちゃんと、見てもらえている気がします」
ノアは、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は、否定ではなかった。
谷に、夕日が沈んでいく。
湯気が、茜色に染まっていた。
私たちの間には、一定の距離があった。
手を伸ばせば届く距離ではない。
けれど、声は届く距離。
近づきすぎない、その距離が。
今は、とても、心地よかった。
近づかなくても、離れていても。
人と人は、こんなふうに、そばにいられるのだと。
私は、初めて知った。
踏み込まない距離の話でした。
近づくことだけが、親しさではないのだと思います。
訊かないこと、踏み込まないこと。
その距離が、かえって安心を生むこともあります。
二人の距離は、まだ縮まりません。
けれど、その距離こそが、今は尊いのだと思っています。
読んでくださって、ありがとうございました。




