第8話 湯気の理由
湯守の彼の名は、ノアといった。
ハンナがそう呼ぶのを、何度か聞いて、知った。
本人が名乗ったわけではない。
ノアは、自分のことを、ほとんど話さなかった。
毎朝、ノアは決まった仕事をしていた。
里の湯を見回り、温度を確かめ、薪をくべる。
その中で、一つだけ、不思議な習慣があった。
谷の外れ。
里からは少し離れた、川辺の一角。
そこに、ノアは毎朝、湯を運んでいた。
小さな桶に湯を入れ、川辺の平たい石の上に置く。
そして、しばらく、湯気が立つのを見ている。
それから、桶を片付けて、戻ってくる。
それだけの習慣だった。
誰かのための湯ではなかった。
その川辺には、誰も住んでいなかった。
ある朝、私は、なんとなく、その後をついていった。
ノアは、いつものように桶を石の上に置いた。
湯気が、朝の冷えた空気の中で、白く立ちのぼる。
ノアは、それを黙って見ていた。
私は、少し離れた場所に立った。
近づきすぎないように。
「……毎朝、何をしているんですか」
訊いてから、しまった、と思った。
訊かないのが、この里の流儀だった。
ノアは、何も訊かずに私を受け入れてくれた。
それなのに、私は彼に問いを向けてしまった。
「すみません。訊くつもりは……」
「いい」
ノアは、湯気を見たまま言った。
「訊いていい。答えるかは、別だが」
低い声だった。
突き放すのではなく、ただ、事実を言っているだけ。
私は、口をつぐんだ。
ノアは、しばらく湯気を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「昔、ここで、湯を待ってた奴がいた」
私は、息を止めた。
「冷えた手をしてた。湯があれば、温まったのに、間に合わなかった」
それ以上は、言わなかった。
誰なのか。
なぜ間に合わなかったのか。
ノアは、語らなかった。
ただ、湯気が立ちのぼるのを、見ていた。
「だから、毎朝、湯を立てる」
「……その人は、もう」
私は、最後まで言えなかった。
ノアは、答えなかった。
それが、答えだった。
湯気は、ゆっくりと空に溶けていった。
誰も来ない川辺に。
誰のためでもなく。
ただ、間に合わなかった湯を、毎朝、立て続けている。
「ノアさんは」
私は、静かに言った。
「ここで、何を、やめたんですか」
ノアは、こちらを見た。
少しだけ、驚いたような目だった。
「……分かるのか」
「ええ。なんとなく」
ここに来る人は、たいてい、何かをやめに来ている。
ハンナが、そう言っていた。
ノアも、きっとそうだ。
何かを背負いきれなくなって、ここに来て、それをやめた人。
ノアは、また湯気に目を戻した。
「いつか、話す」
それだけ言った。
「今は、まだ」
「はい」
私は、頷いた。
急がなくていい。
ここには、時間がたっぷりあるのだから。
私たちは、しばらく、二人で湯気を見ていた。
何も話さずに。
それでも、何かが、少しだけ近づいた気がした。
ノアが、毎朝、湯気を立てる理由。
その一部だけが、明かされました。
彼が「やめたもの」が何なのか。
それは、もう少し先で、静かに語られます。
訊いていい。けれど、答えるかは別。
そんな距離の取り方が、この二人らしいと思っています。
読んでくださって、ありがとうございました。




