第7話 止まった行商人
朝、ガレスは寝坊した。
「……信じられん」
起きてきた彼は、自分の寝過ごしに、本気で驚いていた。
「こんな時間まで寝たのは、何年ぶりだ」
「よく寝たんだろう」
ハンナが、湯を出した。
「体が、寝たがってたのさ」
ガレスは、ばつが悪そうに湯を飲んだ。
それから、外に出て、また少し驚いた。
「……いい天気だな」
谷に、朝の光が差していた。
湯気が、光の中でゆっくりと立ちのぼっている。
「昨日は、こんな景色、目に入らなかった」
ガレスは、切り株に腰かけた。
急ぐでもなく、ただ、座った。
私は、彼の隣の切り株に座った。
「商売は、いいんですか」
「……ああ。一日くらい、どうってことない」
ガレスは、苦笑した。
「不思議だな。昨日は、一刻も惜しいと思ってた。今は、なんでそんなに焦ってたのか、思い出せん」
湯守の彼が、薪を割っていた。
その音を、ガレスは、ぼんやりと聞いていた。
「あんた、聖女様だったんだってな」
ガレスが、ふいに言った。
ハンナから聞いたのだろう。
「もう、違いますけど」
「なんで、やめた」
私は、少し考えた。
「与え続けるのに、疲れたんです」
「与える側か」
ガレスは、湯を飲んだ。
「俺は、奪われる側だと思ってた。時間も、金も、いつも足りない。だから走り続けてた」
「……でも、本当は」
「ああ」
ガレスは、空を見上げた。
「本当は、走ること自体が、止められなくなってただけかもしれん」
それきり、二人とも、しばらく黙っていた。
谷を、風が抜けていった。
何も言わない時間が、苦しくなかった。
聖堂では、沈黙は気まずいものだった。
誰かが何かを言わなければ、場が持たなかった。
けれど、ここでの沈黙は、ただ静かなだけだった。
昼過ぎ、ガレスは荷をまとめ始めた。
「そろそろ、行くか」
その手は、もう震えていなかった。
「世話になった」
ガレスは、ハンナと私に頭を下げた。
それから、ふと思い出したように、言った。
「そうだ。あんた、聖女様だったんだよな」
「ええ」
「都で、妙な噂を聞いたぞ」
ガレスは、荷を背負い直した。
「聖女様が一人、いなくなったとかで。教会が、連れ戻したがってるって話だ」
私の胸が、わずかに冷えた。
「……そう、ですか」
「連れ戻したい人がいるんだとさ。ずいぶん、必死らしい」
ガレスは、それ以上は知らないようだった。
「まあ、あんたには関係ないか」
そう言って、彼は谷を登っていった。
その背中は、来たときよりも、ゆっくりしていた。
急がない足取りで、彼は山道を遠ざかっていく。
私は、その背中を見送った。
そして、ガレスの言葉を、胸の中で繰り返した。
連れ戻したい人がいる。
誰だろう、と思った。
けれど、なんとなく、分かる気もした。
谷に、また静けさが戻ってきた。
薪を割る音だけが、規則正しく響いていた。
止まった行商人は、少しゆっくりになって、里を出ていきました。
去り際に残した言葉が、これから少しずつ、里に近づいてきます。
エルシャの静かな日々は、まだ続きます。
けれど、都の方から、何かが動き始めているようです。
次は、湯守の彼の話を、少しだけ。
読んでくださって、ありがとうございました。




