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聖女を返上したら、静かに溺愛されました 〜山あいの湯治の里で、何もしなくていいと言われて〜  作者: はねださら


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第6話 急ぐ人

里に、行商人が来た。


ガレスという名の男だった。


大きな荷を背負い、額に汗をかいて、谷を下りてきた。


「やれやれ、辺鄙なところだ」


ガレスは荷を下ろすなり、そう言った。


「で、ここで何が売れる? 何が要る? 湯治客は金を持ってるのか?」


早口だった。


里の空気とは、まるで違う速さだった。


ハンナは、いつもの調子で湯を勧めた。


「まあ、座って。湯でも飲みな」


「いや、商売が先だ。日が暮れる前に、次の村まで行きたい」


ガレスは座らなかった。


荷を解き、品物を並べ、里の者に声をかけて回る。


針、糸、塩、乾物。


「安いよ。今だけだ。早い者勝ちだ」


けれど、里の者は、誰も急がなかった。


ゆっくりと品を眺め、ゆっくりと考え、ゆっくりと決める。


その速さが、ガレスには耐えられないようだった。


「もっとこう、てきぱきと選べないのか。時間がもったいない」


「時間なら、ここにはたっぷりあるよ」


ハンナが笑った。


「あんたが、持ってないだけだ」


ガレスは、むっとした顔をした。


私は、食堂の隅から、その様子を見ていた。


ガレスを見ていると、少しだけ、昔の自分を思い出した。


聖女だった頃の私も、いつも急いでいた。


次の務め、次の祈り、次の癒し。


止まると、何かが遅れる気がして。


止まることが、怖かった。


ガレスは、夕方になっても、まだ動いていた。


「次の村まで、急げば日暮れに着く」


そう言いながら、荷をまとめ始める。


けれど、その手が、少し震えていた。


二日も山道を歩いてきたのだろう。


体は、もう限界に近いはずだった。


それでも、彼は止まらなかった。


止まれないのだ。


「ガレスさん」


私は、思わず声をかけていた。


ハンナの言葉が、頭をよぎる。


手を出してはいけない。


けれど、これは癒しではなかった。


ただ、声をかけただけ。


「今日は、もう遅いですよ」


ガレスは、こちらを見た。


「日が暮れたら、山道は危ないです。次の村は、明日でも逃げません」


「……いや、しかし」


「逃げませんよ。村は、どこにも行きませんから」


ガレスは、しばらく黙っていた。


それから、自分の震える手を見た。


「……俺は」


声が、少し掠れていた。


「止まると、置いていかれる気がするんだ」


その言葉に、私は胸を突かれた。


置いていかれる気がする。


それは、かつての私が、ずっと感じていたことだった。


「分かります」


私は、静かに言った。


「私も、そうでした」


ガレスは、初めて私をまっすぐ見た。


そして、ゆっくりと、荷を下ろした。


「……一晩だけ、世話になる」


ハンナが、湯を運んできた。


「最初から、そう言えばいいんだよ」


ガレスは、湯気の立つ器を、両手で受け取った。


その手は、まだ少し震えていた。


けれど、もう、荷をまとめてはいなかった。


急ぐ人が、初めて止まる前の話でした。


「止まると、置いていかれる気がする」


これは、エルシャ自身がかつて抱えていた感覚でもあります。


人を癒すのではなく、ただ「分かります」と言うこと。


それも、一つの形なのかもしれません。


次は、止まったガレスの話です。


読んでくださって、ありがとうございました。


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