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聖女を返上したら、静かに溺愛されました 〜山あいの湯治の里で、何もしなくていいと言われて〜  作者: はねださら


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第5話 名前のない椅子

食堂には、いくつかの椅子があった。


長い木の卓を囲むように並んでいる。


どの椅子も、少しずつ形が違った。


座面の高さも、背もたれの角度も。


長く使われて、それぞれに馴染んだ形になっている。


私は、毎食、隅の椅子に座っていた。


入り口に一番近い、目立たない場所。


聖堂では、席は決まっていた。


聖女の席。


上座の、皆から見える場所。


私はそこに座り、皆の視線を受けながら食事をした。


それが、私の席だった。


ここには、決まった席がなかった。


誰がどこに座ってもよかった。


だから私は、いつも隅に座った。


邪魔にならない場所に。


ある朝。


食堂に下りると、卓の真ん中あたりの椅子が、ぽつんと空いていた。


他の椅子より、少しだけ座面が広く、背もたれがゆったりした椅子。


座り心地が良さそうだった。


私は、その椅子を見た。


そして、いつもの隅の椅子に座った。


ハンナが、湯を運んできた。


「そこ、好きなのかい」


隅の椅子のことだった。


「……いえ。邪魔にならないので」


「邪魔って、誰の」


私は、答えに詰まった。


誰の邪魔にもならない。


ここには、私が邪魔をするような相手も、用事もないのだから。


「真ん中の椅子、座り心地いいよ」


ハンナはそう言って、竈に戻った。


私は、真ん中の椅子を見た。


誰のものでもない椅子。


名札もなく、決まった主もいない。


座っていいのか、分からなかった。


聖堂では、上座に座るには、聖女という資格が要った。


資格のない者が座れば、咎められた。


けれど、この椅子に座るのに、資格は要らないはずだった。


要らないはずなのに、足が動かなかった。


私はずっと、資格で席を得てきたから。


資格のない自分が、いい席に座ることが、怖かったのだ。


その日、私は隅の椅子に座ったまま、食事を終えた。


夕方。


湯小屋の前で、湯守の彼が休んでいた。


薪割りの手を止めて、切り株に腰かけている。


私は、なんとなくそばに行った。


「……あの椅子のことなんですが」


彼は、こちらを見た。


「真ん中の、座り心地のいい椅子。あれは、誰の椅子ですか」


彼は、少し考えるように間を置いた。


「誰のでもない」


「……誰も、座らないんですか」


「座りたい奴が、座る」


それだけだった。


「決まってないんですか。席は」


「決めると、座れない奴が出る」


私は、その言葉を、しばらく噛みしめた。


席を決めると、座れない者が出る。


資格を作ると、資格のない者が弾かれる。


だからこの里には、名前のない椅子があるのだ。


誰が座ってもいい椅子が。


「……そうですか」


私は呟いた。


翌朝。


食堂に下りた私は、隅の椅子の前で、少し立ち止まった。


そして。


真ん中の、名前のない椅子に、座ってみた。


座面は、思ったより広くて。


背もたれは、ゆったりと私の背を受けた。


誰も、咎めなかった。


ハンナは、ちらりと私を見て、何も言わずに湯を置いた。


それだけだった。


私は、その椅子に座って、朝の湯を飲んだ。


資格はなかった。


それでも、座っていいのだと、誰も教えてくれなかったのに。


座ってみて、初めて分かった。


ここでは、座りたいと思った者が、座っていいのだ。


名前のない椅子の話でした。


「あなたはここに座っていい」と言われないと座れない人と、誰のものでもないと知れば座れる人がいます。


エルシャは、ようやく一つの椅子に座れました。


小さな一歩ですが、彼女にとっては大きな一歩だったかもしれません。


読んでくださって、ありがとうございます。

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