第4話 役目の癖
朝、食堂で、一人の老人が咳をしていた。
里に長く滞在している、湯治客の一人らしい。
乾いた、軽い咳。
それを聞いた瞬間、私の体は動いていた。
立ち上がり、老人のそばへ行こうとする。
胸に手を当てて、息を整えてあげれば、楽になる。
聖女だった頃、何百回と繰り返した動き。
考えるより先に、手が伸びていた。
「およし」
ハンナの声が、私を止めた。
私は、自分が立ち上がっていたことに、ようやく気づいた。
「あの方、咳を……」
「ああ、知ってるよ。長いんだ、あの咳は」
ハンナは湯を注ぎながら言った。
「でも、あの人はここに、治しに来たわけじゃない。咳と一緒に、ただ休みに来てるのさ」
「……でも、楽にしてあげられます」
「あんたが?」
ハンナは、優しく問い返した。
責める響きはなかった。
「あんたが楽にしてあげたら、あの人はまた、誰かに楽にしてもらう人に戻る。それでいいのかい」
私は、言葉に詰まった。
「ここに来る人は、誰かに何かをしてもらうのを、一度やめに来てるんだよ。あんたと同じでね」
私は、ゆっくりと腰を下ろした。
伸ばしかけた手を、膝の上に戻す。
老人は、咳をしながらも、穏やかな顔で湯を飲んでいた。
苦しそうではなかった。
ただ、咳と共に、そこにいた。
私が手を出さなくても。
その人は、その人のままで、大丈夫だった。
「あんたのその癖はね」
ハンナが言った。
「悪いもんじゃない。でも、ここでは要らないものだ」
要らない。
その言葉は、突き放すようでいて、不思議と優しかった。
私の何かを、否定しているのではなかった。
ただ、ここでは持たなくていい、と言っているだけ。
「……はい」
私は頷いた。
その日の午後。
私は、自分のために茶を淹れてみることにした。
人に淹れるのではなく、自分のために。
竈を借りて、葉を蒸らす。
けれど、うまくいかなかった。
湯の温度が高すぎたのか、茶は苦く、渋かった。
聖堂では、いつも誰かが私のために淹れてくれた。
私が、自分のために何かをすることは、なかったのだ。
苦い茶を一口飲んで、私は小さく笑った。
こんな簡単なことも、できないのだ。
私は、人のために生きることには慣れていて。
自分のために生きることには、まるで不慣れだった。
湯小屋の方から、薪を割る音がする。
彼は今日も、急がない手つきで、薪を割っていた。
私は、苦い茶を持って、その音を聞いていた。
下手な茶でも。
自分のために淹れた茶は、初めてのものだった。
人のために動くのは得意でも、自分のために何かをするのは下手。
そういう人、いるのではないでしょうか。
エルシャの淹れた茶は、まだ苦いままです。
この茶が、いつか自然と湯気を立てる日のことを、覚えていてもらえたら嬉しいです。
読んでくださって、ありがとうございました。




