第3話 何もしなくていい場所
里に着いた翌朝、私は早くに目を覚ました。
聖堂にいた頃の癖だった。
人が起きる前に身を整え、その日の務めの準備をする。
けれど、ここには務めがなかった。
私は寝床に座ったまま、しばらく動けなかった。
何をすればいいのか、分からなかったのだ。
宿の食堂に下りると、年配の女性が湯を沸かしていた。
里を切り盛りしているハンナだと、昨夜聞いていた。
「おはよう」
ハンナは振り返らずに言った。
「よく眠れたかい」
「……はい。久しぶりに」
「そうかい。それはよかった」
それだけだった。
ハンナは私に、何をするのか訊かなかった。
いつまでいるのかも、訊かなかった。
私は手持ち無沙汰のまま、立っていた。
体が、何か役に立とうとしている。
湯を運ぼうか。
掃除をしようか。
人の役に立てば、ここにいる理由ができる。
長年の癖が、そう囁いた。
私が一歩、竈の方へ踏み出したとき。
ハンナが、こちらを見た。
「あんた、聖女様だったんだってね」
私は足を止めた。
名乗った覚えはなかった。
「……どうして」
「歩き方で分かるよ」
ハンナは笑った。
「いつも、誰かのために動こうとする。自分の用事じゃなくてね。そういう歩き方をする子が、たまに来る」
私は、何も言えなかった。
図星だった。
「いいかい」
ハンナは竈の前に座り直した。
「ここでは、治さなくていい」
ゆっくりとした声だった。
「答えも、出さなくていい。誰かのために動かなくていい。あんたが何もしなくたって、誰も困らないんだ」
「……でも」
「でも、じゃないよ」
ハンナは静かに遮った。
「あんたは、ここに何かをしに来たんじゃないだろう。何かをやめに来たんだろう」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
何かをやめに来た。
そうだ。
私は、与えるのをやめに来たのだ。
「ここは、そういう場所だから」
ハンナはそう言って、また湯に向き直った。
それ以上は、何も言わなかった。
私は、食堂の隅に座った。
何もせずに。
それは、思っていたよりずっと難しかった。
何もしないでいると、落ち着かなかった。
役に立っていない自分に、価値がない気がした。
その焦りが、長い時間をかけて、少しずつ薄れていく。
昼が過ぎ。
夕方が来て。
私は、本当に何もしなかった。
湯に入り、白湯を飲み、庭を眺めた。
湯守の彼が、薪を割っていた。
私は、ただそれを見ていた。
役に立とうとせずに、人を見たのは、いつぶりだろう。
夜になった。
宿の窓から、谷の闇が見えた。
虫の声がして、遠くで湯の流れる音がする。
私は寝床に横になった。
今日、私は誰も癒さなかった。
誰の問いにも答えなかった。
誰のためにも、動かなかった。
それなのに。
誰も、困らなかった。
私は、ここにいてよかった。
何もしなくても、ここにいてよかったのだ。
その事実が、胸の奥を、温かい湯のように満たしていく。
私は目を閉じた。
何もしなかった一日が、こんなにも穏やかだなんて。
知らなかった。
第3話まで読んでくださって、ありがとうございます。
「何もしなくていい」
たった一言ですが、これを言われたくて、言われずに頑張り続けている人は、きっと多いのだと思います。
エルシャは、ようやくその言葉に出会えました。
ここからは、彼女が少しずつ「何もしない」に慣れていく日々です。
ゆっくり、お付き合いいただけたら嬉しいです。




