第2話 誰も待っていない場所
山道を二日歩いて、里に着いた。
霧の湯と呼ばれる、小さな里。
谷の底に、いくつかの湯小屋と、湯気の立つ屋根が寄り集まっている。
それだけの場所だった。
道を下りていくと、湯の匂いがした。
硫黄ではない。
もっと柔らかい、土と水の混じった匂い。
里の入り口には、誰もいなかった。
聖堂なら、客が来れば必ず誰かが出迎える。
けれどここでは、誰も私を待っていなかった。
それが、少しだけ心細くて。
それ以上に、少しだけ身軽だった。
私は荷物を抱えて、湯気の方へ歩いていく。
一番大きな湯小屋の前で、一人の男が薪を割っていた。
年の頃は、私と同じくらいだろうか。
背が高く、肩幅が広い。
けれど、どこか静かな人だった。
薪を割る音にも、急いだところがない。
男は私に気づくと、斧を止めた。
そして、こちらを見た。
私は名乗ろうとした。
聖女として人前に出るときの、いつもの口上が喉まで出かかる。
けれど、男は何も訊かなかった。
私が誰なのか。
どこから来たのか。
なぜここにいるのか。
何ひとつ、訊かなかった。
ただ、薪を一本脇に置いて、立ち上がる。
「湯、ある」
それだけ言った。
「入っていい」
低い、短い声だった。
私は戸惑った。
名前も、用件も、訊かれないまま、湯を勧められる。
こんなふうに人と接したのは、初めてだった。
「……あの」
私は言いかけて、やめた。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなくなった。
男は私の戸惑いを、急かさなかった。
ただ、湯小屋の方へ、手のひらを向けた。
どうぞ、と。
「歩いてきたんだろう。冷えてる」
それは、問いではなかった。
私の手が、知らないうちに少し震えていたことに、彼は気づいていたらしい。
「……ありがとうございます」
私は頭を下げた。
湯小屋の中は、薄暗くて、温かかった。
湯気が、天井近くでゆっくりと渦を巻いている。
私は服を解いて、湯に身を沈めた。
熱い、と思った瞬間。
体の芯にあった、固いものが、少しだけ緩んだ。
二日歩いた疲れだけではない。
もっと長く、ずっと前から、肩に乗っていた何か。
それが、湯の中でほどけていく。
涙が出るほどではなかった。
ただ、息が深くなった。
それだけ。
湯から上がると、湯小屋の外に、湯気の立つ器が置かれていた。
白湯だった。
誰が置いたのか、訊かなくても分かった。
私はそれを、両手で持つ。
温かかった。
外では、また薪を割る音がしていた。
規則正しく、急がない音。
私はその音を聞きながら、白湯を飲んだ。
誰も、私が誰なのかを知らない。
誰も、私に何かを期待していない。
誰も、待っていない。
それが、こんなにも楽なことだと、私は知らなかった。
湯守の彼は、最後まで名前を訊きませんでした。
訊かないことが、優しさになる場所もあるのだと思います。
次は、エルシャがこの里で「何もしなくていい」と言われる話です。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。




