第1話 役目を返す日
役目を返すとき、
もっと大きな感情が動くものだと思っていた。
惜しむとか、迷うとか、
すがりたい気持ちとか。
けれど実際には、
胸の奥で、何かが静かに終わっただけだった。
私は、誰も癒さなかった。
誰にも答えを出さなかった。
ただ、役目を返して、湯の里へ向かう。
その選択が、
思ってもいなかった溺愛を呼ぶことになるなんて――
このときの私は、まだ知らない。
「聖女の役目を、お返ししたく存じます」
その朝、私は、大司祭の前で、そう告げた。
声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。
光神に選ばれてから、十年。
人の傷を癒し、人の問いに答え、人の不安を引き受ける。
それが、私だった。
聖堂には、いつもの匂いがしていた。
蝋燭と、香と、磨かれた石の匂い。
その匂いの中で、私は、十年務めた役目を、静かに手放そうとしていた。
大司祭はしばらく黙っていた。
責めるでも、引き止めるでもなく、ただ私を見ていた。
「……理由を、聞いてもよいか」
「特別な理由は、ありません」
私は静かに答える。
「ただ、少し疲れました。それだけです」
嘘ではなかった。
けれど、本当のすべてでもなかった。
本当のことは、たぶん言葉にならない。
ここ数年、人を癒すたびに、自分の中の何かが薄くなっていく感覚があった。
水を注ぎ続けた器が、いつの間にか空になっているような。
それでも私は注ぎ続けた。
聖女とは、そういう役目だから。
「君がいなくなれば、困る者が出る」
大司祭の声には、責める色はなかった。
ただ、事実を述べているだけ。
「ええ。存じております」
「それでも、返すのか」
「はい」
私は頷いた。
不思議と、迷いはなかった。
大司祭は長く息を吐いた。
「……止めはしない」
その言葉に、私は少しだけ意外な気持ちになった。
もっと、引き止められると思っていた。
役目とは、そう簡単には返せないものだと、ずっと思っていたから。
「ただ、行く当てはあるのか」
「はい」
私は窓の外を見た。
朝の光が、聖堂の高い窓から斜めに差している。
「山の方に、湯の里があると聞きました」
「湯治の里か」
「ええ。傷や病を抱えた人が、ただ休みに行く場所だと」
大司祭は少しだけ目を細めた。
「あそこは……治す場所ではないぞ」
「ええ。だから、行こうと思いました」
私は微笑む。
たぶん、十年ぶりくらいの、役目ではない微笑みだった。
「治さなくていい場所に、行ってみたいのです」
大司祭は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
それが、許しだったのだと思う。
聖堂を出るとき、何人かの神官とすれ違った。
誰も、強くは引き止めなかった。
「お元気で」と言う者。
ただ頭を下げる者。
困ったように目を伏せる者。
それぞれの形で、私を見送った。
役目を返すというのは、こういうことなのだと思った。
大きな別れの場面があるわけではない。
ただ、自分のいた場所から、静かに一歩外へ出るだけ。
聖堂の門を抜けると、空が広かった。
役目を背負っていたときには、気づかなかった広さ。
私は荷物を持ち直す。
聖女の衣はもう着ていない。
ただの旅装。
ただの、何者でもない私。
「……行こう」
誰に言うでもなく、呟いた。
風が、頬を撫でていった。
冷たくはなかった。
肩のあたりが、ふっと軽くなる。
それが、痛みではないことに、私は少しだけ驚いていた。
最初の一話を読んでくださって、ありがとうございます。
この物語には、ざまぁも、復讐も、大きな事件もありません。
ただ、役目を降りた人が、何者でもないまま、少しずつ整っていく過程を描いていきます。
派手ではない物語ですが、もし、この空気が少しでも心地よかったなら。
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また、里でお会いできたら嬉しいです。




