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聖女を返上したら、静かに溺愛されました 〜山あいの湯治の里で、何もしなくていいと言われて〜  作者: はねださら


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第10話 名前を呼ぶ

聖女だった頃、私は「聖女様」と呼ばれていた。


エルシャ、という名前を呼ぶ人は、ほとんどいなかった。


役目が、名前の代わりになっていた。


里に来てからも、それは変わらなかった。


ハンナは私を「あんた」と呼び、湯治客は「お嬢さん」と呼んだ。


ノアは、私を、何とも呼ばなかった。


呼びかけるとき、彼はただ、こちらを見た。


それで、十分に伝わった。


ある朝、川辺で。


いつものように、湯気を見ていた。


ノアが、桶を片付けながら、ふいに言った。


「名前は」


私は、彼を見た。


「あんたの、名前」


訊かない人だと思っていた。


その彼が、初めて、私に何かを訊いた。


「……エルシャです」


私は、答えた。


ノアは、その名を、口の中で確かめるように繰り返した。


「エルシャ」


低い声だった。


たった三文字。


それなのに、胸の奥が、ふっと温かくなった。


「エルシャ」


ノアは、もう一度言った。


今度は、私に向かって。


「冷えてる。湯、入っていい」


いつもの言葉だった。


けれど、今朝は、その前に、私の名前があった。


私は、頷いた。


「……はい」


声が、少しだけ揺れた。


名前を呼ばれるだけで、こんなにも違うのだと、知らなかった。


聖女、と呼ばれるとき、人は私の役目を見ていた。


エルシャ、と呼ばれるとき、ノアは、私を見ていた。


役目ではなく、私自身を。


その日の午後。


私は、ずっと、自分の名前のことを考えていた。


エルシャ。


ずいぶん長い間、忘れていた名前。


役目を返したとき、私は何者でもなくなったと思っていた。


聖女でなくなった私は、空っぽだと。


けれど、違った。


聖女でなくなっても、私は、エルシャだった。


役目を脱いだ後にも、名前は残っていた。


それを、ノアが、思い出させてくれた。


夕方、宿に戻ると、ハンナが、一通の手紙を持っていた。


「あんた宛てだよ」


私は、戸惑った。


ここに来てから、手紙など、一度も来なかった。


私がここにいることを知る者は、いないはずだった。


封を見ると、見覚えのある紋章があった。


光神教会の、紋章。


胸が、わずかに冷えた。


ガレスの言葉が、よみがえる。


連れ戻したい人がいる。


ずいぶん、必死らしい。


私は、手紙を、開かなかった。


しばらく、手の中で、それを見ていた。


「読まないのかい」


ハンナが訊いた。


「……今は、まだ」


私は、手紙を懐にしまった。


せっかく、名前を取り戻した日だった。


エルシャ、と呼ばれた、その日に。


役目が、また、追いついてきた。


谷の外では、ノアが薪を割っていた。


規則正しい、急がない音。


私は、その音を聞きながら、懐の手紙の重さを感じていた。

ノアが、初めてエルシャの名前を呼びました。


そして同じ日に、都からの手紙が、里に届きます。


名前を取り戻した日に、役目が追いついてくる。


少しだけ、切ない巡り合わせかもしれません。


ここまでが、第一章「役目を返す」でした。


ここからは、エルシャがこの里で「整っていく」日々と、追いかけてくる過去の話になります。


読んでくださって、ありがとうございました。


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