第11話 全部を背負う人
都からの手紙を、私はまだ開けずにいた。
懐にしまったまま、いつもの日々を過ごしていた。
そんなある日、里に、一人の女性が来た。
マルタという名の、私より少し年上の女性だった。
ふもとの町で、宿の女将をしているという。
「すみません、長居はできないんです」
マルタは、着くなり、そう言った。
「宿を空けてきたので。本当は、来たくなかったんですけど、医者にどうしても休めと言われて」
その顔は、ひどく疲れていた。
目の下に、濃い隈があった。
それでも、彼女は座ろうとしなかった。
「お茶でもいかがです? 何かお手伝いしましょうか? 私、じっとしているのが苦手で」
聞いていて、胸が痛くなった。
休みに来たはずの人が、休み方を知らない。
その姿は、里に来たばかりの、私自身に似ていた。
「マルタさん」
ハンナが、湯を勧めた。
「ここでは、何もしなくていいんだよ」
「いえ、でも、何かしていないと落ち着かなくて。宿のことも気になりますし」
「宿は、誰が見てるんだい」
「娘と、使用人が。でも、あの子たちだけじゃ、心配で。私がいないと、回らないんです」
私がいないと、回らない。
マルタは、それを、当たり前のように言った。
「全部、私が見ていないと。料理も、客あしらいも、帳簿も。誰かに任せると、間違いが出るんです」
「あんた、何年、休んでないんだい」
ハンナが訊いた。
マルタは、少し考えた。
「……何年でしょう。思い出せません」
その答えに、私は、言葉を失った。
何年も休んでいない。
それなのに、彼女は、それを苦労とすら思っていないようだった。
私が背負わなければ。
私がやらなければ。
その思いが、彼女を、ずっと立たせ続けていた。
夜になった。
マルタは、湯にも入らず、食堂の隅で、宿の帳簿を広げていた。
「ここまで来て、仕事ですか」
私は、声をかけた。
「ええ。少しでも進めておかないと」
マルタは、顔も上げずに言った。
「私が止まると、みんなが困るんです」
その瞬間。
マルタの手から、帳簿が滑り落ちた。
ぱさり、と床に落ちる。
マルタは、それを拾おうとして――
そのまま、ゆっくりと、椅子から崩れた。
「マルタさん」
私は、駆け寄った。
倒れたわけではなかった。
ただ、糸が切れたように、力が抜けたのだ。
マルタは、床に座り込んだまま、呆然としていた。
「……あれ」
掠れた声だった。
「体が、動かない」
何年も張り詰めていたものが、湯の里の空気の中で、ふっと緩んでしまったのだ。
張りつめている間は、倒れることもできない。
緩んだ瞬間に、体は、ようやく休もうとする。
私は、マルタの背に、そっと手を添えた。
癒すためではなかった。
ただ、支えるために。
「大丈夫です」
私は、静かに言った。
「ここでは、倒れても、誰も困りませんから」
マルタの目から、涙が、一粒こぼれた。
「私がいないと、回らない」
その言葉を、ずっと自分に言い聞かせて、立ち続けてきた人。
マルタは、湯の里で、ようやく緩むことができました。
緩んだ瞬間に、倒れてしまうほど、張りつめていたのです。
次は、そんなマルタが、少しずつ「預ける」ことを覚える話です。
そして、エルシャ自身も、自分の中にあるものに、気づいていきます。
読んでくださって、ありがとうございました。




