第12話 預けるという練習
マルタは、その夜、深く眠った。
翌朝、起きてきた彼女は、別人のような顔をしていた。
「……こんなに眠ったの、いつぶりかしら」
目の下の隈は、まだ残っていた。
それでも、表情は、昨夜よりずっと柔らかかった。
「すみません。みっともないところを」
「みっともなくなんてないよ」
ハンナが、湯を出した。
「張りつめてた糸が、緩んだだけさ。当たり前のことだ」
マルタは、湯を飲んだ。
その手は、もう帳簿を探していなかった。
朝の食事のあと、私は、マルタと庭に出た。
谷に、朝の光が差していた。
「不思議です」
マルタが、ぽつりと言った。
「宿のこと、あんなに気になっていたのに。今は、少しだけ、どうでもよくなっています」
「どうでもいい?」
「いえ、違いますね」
マルタは、言い直した。
「娘や使用人を、信じてみようかな、と。私がいなくても、なんとかなるかもしれない、と」
私は、頷いた。
「ずっと、誰にも任せられなかったんです」
マルタは続けた。
「任せて、失敗したら、私のせいだから。だったら、全部、自分でやったほうがいい。そう思って、何年も」
「……疲れますね」
「ええ。疲れます」
マルタは、笑った。
少し、泣きそうな笑顔だった。
「でも、もう、疲れたって、言えなかったんです。私が弱音を吐いたら、みんなが不安になるから」
その言葉を聞いて、私は、自分の胸の奥が、ざわつくのを感じた。
私も、同じだった。
聖女が弱音を吐けば、信徒が不安になる。
だから、私は、いつも平気な顔をしていた。
疲れた、と言えないまま、ずっと立っていた。
「マルタさん」
私は、言った。
「ここでは、預けてもいいんだと思います。宿のことは、娘さんたちに。荷物は、この里に」
「荷物?」
「背負っているもの、全部です」
マルタは、しばらく考えた。
それから、ゆっくりと言った。
「あなたも、背負ってきた人なのね」
私は、答えなかった。
けれど、マルタには、伝わったようだった。
「ねえ」
マルタは、私を見た。
「あなた、誰かに必要とされるのが、怖いんじゃない?」
私は、息を止めた。
「必要とされると、応えなきゃいけない。応えられないと、いらなくなる。だから、必要とされるのが怖い。違う?」
その言葉は、私の、いちばん柔らかい場所を突いた。
役に立つから、ここにいていい。
役に立たなければ、いらなくなる。
私が、ずっと、恐れていたこと。
それを、マルタは、まっすぐに言い当てた。
「……どうして、分かるんですか」
私は、掠れた声で訊いた。
「同じだから」
マルタは、静かに笑った。
「背負ってきた者同士は、すぐ分かるのよ」
谷を、風が抜けていった。
私は、長い間、何も言えなかった。
マルタは、三日、里にいた。
帰る朝、彼女の足取りは、来たときより、ずっと軽かった。
「娘に、手紙を書きました」
マルタは言った。
「しばらく、宿を任せる、って。私は、もう少し、休んでくる、って」
「いいんですか。それで」
「ええ」
マルタは、笑った。
「私がいなくても、回るみたいです。ちょっと、悔しいけど」
その悔しさは、晴れやかなものだった。
マルタは、谷を登っていった。
その背中を見送りながら。
私は、彼女の言葉を、何度も、胸の中で繰り返していた。
必要とされるのが、怖い。
私の、いちばん奥にあったもの。
それに、ようやく、名前がついた気がした。
背負ってきた者同士は、すぐ分かる。
マルタは、エルシャ自身も気づいていなかった心の奥を、言い当てていきました。
「必要とされるのが怖い」
これは、これからのエルシャにとって、大きな問いになります。
預けること、手放すこと。
少しずつ、覚えていけたらいいですね。
読んでくださって、ありがとうございました。




