第30話 ここに残るもの
ノアの話を聞いた、翌朝。
私は、机の上の、最後の手紙を、見ていた。
大司祭の、手紙。
格式の高い、封蝋。
ずっと、開けられずにいた。
けれど、今朝は、開けられる気が、した。
私は、封を、切った。
中の文字は、流麗で、威厳に満ちていた。
「聖女の返上は、認められない」
それが、書き出しだった。
「聖女とは、神に選ばれし役目。一個人の意思で、降りられるものではない。近く、私自らが、そちらに赴く。直接、話をしよう」
私自らが、赴く。
大司祭オルドリック。
聖女という制度の、頂点に立つ人。
あの日、私の返上を「止めはしない」と言ったのも、この人だった。
けれど、あれは、一人の人としての、黙認だったのだろう。
制度の頂点に立つ大司祭としては、私の返上を、認めるわけにはいかない。
個人の情と、役目の建前。
その二つの間で、この人もまた、立っているのかもしれなかった。
その人が、この里に、来る。
私は、手紙を、机に置いた。
不思議と、恐れは、なかった。
来た頃の私なら、震えていただろう。
役目を投げ出した自分を、責められると思って。
けれど、今は。
私は、もう、知っていた。
正しさと、戻れるかどうかは、別の話だと。
そして、私の力は、枯れていないと。
役に立たなくても、私は、ここにいていいのだと。
「来るなら、来ればいい」
私は、静かに、呟いた。
「それでも、私は、ここにいます」
その日の夕方。
私は、川辺に立っていた。
ノアが、薪を運んでいた。
ハンナが、湯を沸かしていた。
湯治客の老人が、咳をしながら、湯を飲んでいた。
若い旅人が、その隣で、ゆっくりしていた。
里は、いつも通りだった。
何も、変わらなかった。
私は、この風景を、見ていた。
そして、思った。
私は、ここに、残ろう。
役目を、果たすためでは、ない。
役に立つ、ためでもない。
ただ、ここに、いたいから。
その選択を、私は、初めて、自分で、した。
聖女の役目は、神が、与えたものだった。
私の意思では、なかった。
けれど、ここに残ることは。
誰にも、与えられていない。
ただ、私が、選んだことだった。
「ハンナさん」
私は、食堂に戻って、言った。
「私、ここに、残ります」
ハンナは、湯を沸かす手を、止めなかった。
「ああ」
それだけ、言った。
「知ってたよ」
私は、笑った。
「次は、あんたの番だって、言ったろう」
ハンナは、湯を注いだ。
「あんたは、もう、降ろした人だ。今度は、迎える人になる番さ。急がなくていい。ゆっくり、なりな」
私は、頷いた。
迎える人。
降りた人を、迎える人。
ハンナが、私を、迎えてくれたように。
いつか、私も。
そして、夜が来た。
私は、寝床で、窓を開けた。
谷の闇が、見えた。
虫の声がして、遠くで、湯の流れる音がする。
里に来た、最初の夜と、同じ風景。
けれど、あの夜と、今夜は、違っていた。
あの夜の私は、何もしなかった一日に、驚いていた。
何もしなくても、誰も困らないことに。
今夜の私は、もっと、深いところで、知っていた。
役に立たなくても、私は、ここにいていい。
そして、ここにいたいから、いる。
大司祭が、来るだろう。
役目に、戻れと、言うだろう。
それでも、私は、ここにいる。
それは、もう、揺らがなかった。
明日も、里の朝は、来る。
ノアが、湯気を立て。
ハンナが、湯を沸かし。
誰かが、急ぎながら、谷を下りてきて。
そして、少しずつ、止まることを、覚えていく。
私は、その風景の中に、いる。
聖女としてでは、なく。
ただ、エルシャとして。
私は、目を閉じた。
ここに残るもの。
それは、役目では、ない。
肩書きでも、ない。
ただ、ここにいたいと、自分で選んだ、その気持ちだった。
誰にも、与えられず。
誰にも、奪われない。
選べる余白の中に、私は、いた。
第30話まで、お読みいただき、本当にありがとうございます。
ここで、第一部「役目を返す」が、完結します。
役目を降りた聖女が、湯治の里にたどり着き。
何もしなくていい場所で、少しずつ、整っていく。
連れ戻しに来たクララと、争わずに向き合い。
枯れたと思っていた力が、形を変えて残っていたことを知り。
踏み込まない湯守ノアと、距離を保ったまま、つながり。
そして、「ここに残る」ことを、自分で、選びました。
役に立つから、いるのではない。
ただ、いたいから、いる。
エルシャは、ようやく、その場所に、たどり着きました。
けれど、物語は、まだ、続きます。
聖女制度の頂点に立つ大司祭オルドリックが、この里に、やってきます。
「役目は、降りられない」と告げるために。
エルシャと、里の静けさは、その正しさと、どう向き合うのか。
第二部で、また、お会いできたら、嬉しいです。
ここまで、本当に、ありがとうございました。
もし、この静かな空気が、少しでも心地よかったなら。
ブックマークや評価で、そっと応援いただけると、とても励みになります。




