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聖女を返上したら、静かに溺愛されました 〜山あいの湯治の里で、何もしなくていいと言われて〜  作者: はねださら


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第29話 もう、守れないとは言わない

その朝、ノアは、いつもより、長く、湯気を見ていた。


桶の湯が、冷えていくのを、見届けるように。


「エルシャ」


ノアが、私の名を、呼んだ。


「話せる気がする、と言った。覚えてるか」


「はい」


私は、頷いた。


「今、話す」


ノアは、川辺の石に、腰を下ろした。


私も、少し離れて、座った。


近づきすぎず。


けれど、声の届く距離に。


「俺は、昔、教会騎士だった」


ノアは、静かに、語り始めた。


「聖女を、守る役目の、騎士だ」


私は、息を、止めた。


教会騎士。


聖女を、守る者。


「ある聖女に、仕えてた」


ノアは、湯気を見ていた。


「優しい人だった。あんたと、少し、似てる。人のために、自分を、すり減らす人だった」


ノアの声は、淡々としていた。


けれど、その淡々とした声の奥に、深いものが、沈んでいた。


「その人は、無理を、重ねてた。癒して、癒して、空っぽになっても、まだ、癒そうとした。俺は、それを、止めなきゃいけなかった」


「……止め、られなかったんですね」


「ああ」


ノアは、頷いた。


「俺は、剣で、外の敵からは、守れた。でも、その人を、いちばん蝕んでいたのは、外の敵じゃなかった。役目そのものだった。俺は、それから、守れなかった」


湯気が、ゆっくりと、立ちのぼっていた。


「冬の朝だった」


ノアは、続けた。


「その人は、冷えた手をしてた。湯があれば、温まったのに。でも、俺は、間に合わなかった」


私は、思い出した。


ノアが、毎朝、立てる湯気。


間に合わなかった湯。


冷えた手をしていた、誰か。


「その人は」


私は、最後まで、言えなかった。


ノアは、答えなかった。


ただ、湯気を、見ていた。


それが、答えだった。


「俺は、剣を、捨てた」


ノアは、言った。


「守るのを、やめた。守るって役目が、その人を、追い詰めたんじゃないかと、思ったから。俺の『守る』は、その人を、休ませなかった」


ノアの手が、わずかに、握られた。


「だから、ここに来た。守るんじゃなくて、ただ、そばにいる場所に。間に合わなかった湯を、毎朝、立てながら」


私は、長い間、何も言えなかった。


ノアが、なぜ、踏み込まないのか。


なぜ、訊かないのか。


なぜ、距離を、守るのか。


その理由が、ようやく、分かった。


ノアの「守る」は、かつて、誰かを追い詰めた。


だから、彼は、守らない。


ただ、そばにいる。


それが、彼の、新しい愛し方だった。


「ノアさん」


私は、静かに言った。


「ありがとうございます。話してくれて」


ノアは、こちらを見た。


「エルシャ」


「はい」


「あんたが、来た時」


ノアは、ゆっくりと、言った。


「あの人と、似てると思った。だから、最初は、怖かった。また、間に合わないんじゃないかって」


私の胸が、締めつけられた。


「でも、あんたは、違った」


ノアは、続けた。


「あんたは、ちゃんと、降りてきた。空っぽになる前に。だから、間に合った」


ノアの声が、少しだけ、柔らかくなった。


「もう、守れないとは、言わない」


ノアは、私を、まっすぐに見た。


「守るって言葉は、もう、使わない。でも」


少し、間を、置いて。


「ただ、ここにいる。あんたの、そばに」


それは、告白では、なかった。


派手な、愛の言葉でもなかった。


ただ、ここにいる。


そばに、いる。


それだけ。


けれど、その言葉は。


どんな愛の言葉よりも、まっすぐに、私の胸に、届いた。


「……はい」


私は、頷いた。


「私も、ここに、います。ノアさんの、そばに」


私たちの間には、いつもの距離が、あった。


近づきすぎない、一定の距離。


手を伸ばせば届く距離では、なかった。


けれど、その距離のまま。


私たちは、確かに、つながっていた。


湯気が、朝の空に、ゆっくりと、溶けていった。


間に合わなかった湯ではなく。


今朝は、間に合った、二人の湯気だった。


ノアの過去が、語られました。


守れなかった聖女がいた。


だから、彼は、守ることをやめ、ただ、そばにいることを選んだ。


「もう、守れないとは言わない。ただ、ここにいる。あんたの、そばに」


派手な愛の言葉では、ありません。


けれど、これが、ノアの、精一杯の、まっすぐな想いでした。


距離を保ったまま、二人は、確かに、つながりました。


次は、いよいよ、第一部の、最終話です。


読んでくださって、ありがとうございました。


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