第28話 枯れていなかった
その答えは、ある夜、不意に、訪れた。
夜遅く、里に、一人の女が、駆け込んできた。
ふもとの村の、若い母親だった。
腕に、幼い子を、抱いていた。
「お願いします。この子が、熱を出して……」
母親は、半狂乱だった。
「医者は、遠くて。聖女様が、いらっしゃると聞いて……どうか、この子を、癒してください」
聖女様。
その言葉に、里の空気が、わずかに、揺れた。
私は、その母親の前に、立った。
子どもは、確かに、熱を出していた。
頬が赤く、息が荒い。
母親は、必死に、私を見ていた。
癒してほしい、と。
かつての私なら。
迷わず、手を当てて、光の力を込めた。
熱を、引かせた。
それが、聖女の役目だった。
けれど、今は。
私の手に、癒しの力は、もう、なかった。
枯れていた。
「私は」
私は、静かに言った。
「もう、聖女では、ありません。癒しの力は、ないんです」
母親の顔が、絶望に、歪んだ。
「そんな……」
「でも」
私は、続けた。
「落ち着いてください。まず、あなたが、落ち着くことです」
私は、母親の、震える背に、そっと、手を添えた。
癒すためでは、なかった。
ただ、支えるために。
その瞬間。
母親の、荒い息が、少しずつ、整っていった。
半狂乱だった目が、落ち着きを、取り戻していった。
「……あれ」
母親は、呟いた。
「なんだか、落ち着いて、きました」
私は、自分の手を、見た。
何かを、込めたわけではなかった。
ただ、そばにいて、背に手を添えただけ。
それなのに、母親は、落ち着いた。
「子どもの熱は」
私は、言った。
「夜のうちは、湯で、体を冷やしすぎないように。汗をかいたら、拭いて、水を飲ませて。朝には、たいてい、下がります」
それは、癒しの力では、なかった。
ただ、知っていることを、伝えただけ。
「でも、いちばん大事なのは」
私は、母親を見た。
「あなたが、落ち着くことです。あなたが慌てると、子どもも、不安になります。あなたが落ち着けば、子どもも、休めます」
母親は、頷いた。
もう、震えては、いなかった。
その夜、母親は、子どもを抱いて、里に泊まった。
私は、ずっと、そばにいた。
何もしなかった。
ただ、いた。
そして、朝が来た。
子どもの熱は、下がっていた。
「ありがとうございます……」
母親は、涙を流して、頭を下げた。
「聖女様が、癒してくださったおかげです」
「いいえ」
私は、首を振った。
「私は、何もしていません。あなたが、落ち着いて、ちゃんと看病したからです」
母親と子どもが、帰ったあと。
私は、川辺に、一人で立っていた。
ノアが、いつものように、湯気を立てていた。
「ノアさん」
私は、言った。
「私、気づいたんです」
「何に」
「私の力は、枯れていなかった」
ノアは、こちらを見た。
「癒しの力は、確かに、なくなりました。でも、別の力が、残っていた。いえ、ずっと、あったんです」
私は、自分の手を、見た。
「そばにいると、人が、落ち着く。急がなくなる。整う。それが、私の、本当の力だったんです」
聖女だった頃。
私は、癒しの力ばかりを、使っていた。
その陰で、この力は、ずっと、見過ごされてきた。
癒すことに、追われて。
気づけなかった。
「枯れたと思っていたのは」
私は、言った。
「癒しの力だけでした。本当の力は、ずっと、ここにあった」
ノアは、湯気を見ていた。
そして、静かに、言った。
「あんたは、何も、失ってない」
その言葉が、まっすぐに、胸に、落ちた。
私は、何も、失っていなかった。
役目を降りても。
聖女でなくなっても。
私は、私のまま、ここにいた。
そして、私のままで、人を、整えられた。
湯気が、朝の空に、ゆっくりと、溶けていった。
エルシャの力の、本当の正体が、明かされました。
癒しの力は、枯れた。
でも、もう一つの力――そばにいると、人が整う力――は、ずっと、そこにありました。
聖女だった頃、癒すことに追われて、見過ごしてきた力。
「あんたは、何も、失ってない」
ノアの言葉が、エルシャを、静かに肯定します。
役目を降りても、彼女は、彼女のままでした。
次は、いよいよ、ノアの過去が語られます。
読んでくださって、ありがとうございました。




