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聖女を返上したら、静かに溺愛されました 〜山あいの湯治の里で、何もしなくていいと言われて〜  作者: はねださら


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第27話 名前のない椅子に座る人

ある朝、食堂に下りると、若い旅人が、戸口で、立ち止まっていた。


数日前に来た、あのせわしなかった男だ。


今は、すっかり、里の時間に馴染んでいる。


「どうしました?」


私は、訊いた。


「いや」


旅人は、食堂の椅子を、見ていた。


「どこに、座っていいか、分からなくて」


私は、その気持ちが、よく分かった。


来た頃の、私と同じだった。


決まった席がないと、どこに座っていいか、分からない。


「好きなところに、座っていいんですよ」


私は、言った。


「決まった席は、ないので」


「でも」


旅人は、ためらった。


「ここ、誰かの席じゃ、ないですか」


旅人が指したのは、卓の真ん中の、あの椅子だった。


座面が広く、背もたれがゆったりした、名前のない椅子。


私が、来た頃、座るのをためらった、あの椅子。


「ああ」


私は、自分が、いつもそこに座っていることに、気づいた。


いつの間にか。


迷わずに。


「それは」


私は、言いかけて。


「いえ。誰の席でも、ありません」


そう言い直した。


「でも、あんたが、いつも座ってる」


旅人は、言った。


「だから、あんたの席かと」


私の席。


その言葉に、私は、少し、驚いた。


確かに、私は、いつも、その椅子に座っていた。


来た頃は、座るのもためらった椅子に。


今では、当たり前のように。


「決まってはいません」


私は、言った。


「でも、よかったら、隣に、座りませんか」


私は、自分の隣の椅子を、示した。


旅人は、少し、ほっとしたように、そこに座った。


ハンナが、湯を運んできた。


「お、馴染んできたね」


ハンナは、旅人に、湯を出した。


それから、私を見て、小さく笑った。


「あんたも、すっかり、その椅子が板についたねえ」


私は、自分の座っている椅子を、見た。


名前のない椅子。


誰のものでもない椅子。


座りたい者が、座っていい椅子。


来た頃の私は、資格がないと、座れなかった。


聖女という肩書きを失った私には、いい席に座る資格がない。


そう、思い込んでいた。


けれど、今は。


何の資格もなく、ただ、座りたいから、座っている。


そして、誰も、咎めない。


むしろ、いつの間にか、それが「私の席」のように、なっていた。


決められたのではない。


与えられたのでもない。


ただ、座り続けたら、そうなっていた。


「居場所って」


私は、ぽつりと言った。


「こうやって、できるんですね」


「ああ」


ハンナは、頷いた。


「肩書きで、もらうもんじゃない。座り続けて、できるもんだ」


私は、湯を飲んだ。


名前のない椅子に座って。


それは、聖女の席とは、違っていた。


聖女の席は、役目が、与えてくれた席だった。


役目を失えば、消える席。


けれど、この椅子は。


私が、私のまま、座り続けて、できた席だった。


役目がなくても、消えない席。


私は、初めて、本当の意味で、自分の居場所を、持った気がした。


誰にも、与えられていない。


誰にも、奪われない。


ただ、ここにいたいから、いる。


そういう、居場所を。


名前のない椅子が、いつの間にか、エルシャの席になっていました。


第5話で、座るのをためらっていた、あの椅子です。


決められたのでも、与えられたのでもなく。


ただ、座り続けたら、そうなっていた。


肩書きでもらう席は、肩書きを失えば消えます。


けれど、座り続けてできた席は、消えません。


エルシャは、ようやく、本当の居場所を持ちました。


読んでくださって、ありがとうございました。


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