第22話 川辺の湯気、ふたたび
クララが去って、しばらく経った頃。
私は、また、朝の川辺に、ノアといた。
桶の湯気が、冷えた空気の中で、白く立ちのぼっている。
いつもの、朝の習慣。
「クララさん、帰りましたね」
私は、言った。
「ああ」
ノアは、湯気を見ていた。
「戻る、と言って」
「ええ。休み方を、覚えて。今度は、それを知った上で、戻る、と」
ノアは、しばらく、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「あんたは、戻らないんだな」
「はい」
私は、頷いた。
「私は、ここに、いたいです」
ノアは、こちらを見た。
少しだけ、ほっとしたような目だった。
ほんの、わずかに。
「ノアさん」
私は、湯気を見ながら、訊いた。
「この湯気、毎朝、立て続けて、何年になりますか」
ノアは、考えるように、間を置いた。
「……五年だ」
「五年も」
「ああ」
「間に合わなかった湯を、五年」
ノアは、答えなかった。
ただ、湯気を、見ていた。
私は、それ以上は、訊かなかった。
訊いていい。けれど、答えるかは別。
それが、二人の距離だった。
けれど、ノアは、その朝、いつもより、少しだけ、口を開いた。
「あんたと、クララを、見ていて」
ノアは、ゆっくりと言った。
「思い出した。昔のことを」
「……昔の」
「連れ戻しに来る奴と、連れ戻される奴。俺も、昔、その間に、いた」
私は、息を止めた。
ノアが、自分のことを話すのは、初めてだった。
「俺は、連れ戻す側でも、戻される側でもなかった。守る側、だった」
守る側。
その言葉に、何かが、引っかかった。
「でも、守れなかった」
ノアは、湯気を見たまま、言った。
「だから、ここに、来た」
それきり、ノアは、口を閉じた。
私は、何も言わなかった。
言葉を、急がせなかった。
ノアは、まだ、すべては話さなかった。
けれど、扉が、少しだけ、開いた気がした。
「ノアさん」
私は、静かに言った。
「話したくなったら、話してください。話したくなければ、それでいいです」
ノアが、私に、いつも言ってくれた言葉。
それを、今度は、私が、彼に返した。
ノアは、こちらを見た。
そして、ほんの少し、口元が、緩んだ。
笑った、と言えるほどでは、なかった。
けれど、確かに、緩んだ。
「……もうすぐ、話せる気がする」
ノアは、言った。
「あんたになら」
私の胸が、温かくなった。
あんたになら。
その言葉が、距離を保ったまま、まっすぐに、届いた。
湯気が、空に溶けていく。
誰のためでもなかった、その湯気が。
今朝は、少しだけ、二人のものに、思えた。
ノアが、少しずつ、自分の話を始めました。
「守る側だった。でも、守れなかった」
その先は、まだ、語られません。
けれど、扉は、確かに、開き始めています。
「もうすぐ、話せる気がする。あんたになら」
距離を保ったまま、二人の温度は、静かに上がっていきます。
ノアの過去が語られる日は、もう、近いです。
読んでくださって、ありがとうございました。




