第18話 役目という鎧
クララは、三日経っても、発たなかった。
馬は、もう回復していた。
それでも、クララは、発たなかった。
本人も、なぜ発たないのか、分からないようだった。
「明日には、発ちます」
クララは、毎晩、そう言った。
そして、毎朝、発たなかった。
里の時間が、少しずつ、彼女を緩ませていた。
本人が、気づかないうちに。
その日の夕方。
私は、湯小屋の前で、クララと二人になった。
クララは、切り株に座って、谷を眺めていた。
正しさを並べるときの、張りつめた顔ではなかった。
少しだけ、ぼんやりした顔。
「エルシャ様」
クララが、ふいに言った。
「私、変なんです」
「変?」
「ここに来てから、夜、よく眠れるんです。聖堂では、ずっと、浅い眠りだったのに」
クララは、自分の手を見た。
「それに……手の震えが、止まりました」
私は、クララの手を見た。
確かに、来た時は、わずかに震えていた。
夜通し駆けてきた疲れだと思っていた。
けれど、違ったのかもしれない。
「クララ」
私は、静かに訊いた。
「あなた、聖堂で、手が震えていませんでしたか」
クララの肩が、揺れた。
「……気のせいです」
「いつから、震えていましたか」
「震えてなんて、いません」
クララの声が、少し、強くなった。
「私は、大丈夫です。役目を、ちゃんと果たしています。誰よりも」
誰よりも。
その言葉に、無理が滲んでいた。
「あなたは、ずるい」
クララが、突然、言った。
「私が、こんなに正しさを並べているのに。連れ戻そうとしているのに。あなたは、怒らない。言い返さない。ただ、お茶を出す」
クララの目が、潤んでいた。
「怒ってくれれば、いいのに。間違っていると、言ってくれれば。そうしたら、私は……」
クララは、最後まで、言えなかった。
私は、その言葉の先を、なんとなく、分かった気がした。
怒ってくれれば、戦える。
間違っていると言われれば、反論できる。
けれど、優しくされると、戦えない。
優しさの前で、鎧は、行き場をなくす。
「クララ」
私は、言った。
「あなたは、何年、休んでいませんか」
クララは、答えなかった。
ただ、谷を、見ていた。
「私が役目を降りたあと」
クララは、ぽつりと言った。
「あなたの分まで、私が、やらなければと思いました。だから、もっと働きました。眠る時間も、削って」
私の胸が、痛んだ。
私が降りた役目の重さを、クララが、背負っていたのだ。
「だから、あなたを連れ戻せば」
クララの声が、掠れた。
「私の負担も、減ると思って。それで、必死に、ここまで」
そうだったのか。
クララは、ただ、私を連れ戻したいのではなかった。
彼女自身が、もう、限界だったのだ。
「クララ」
私は、彼女の隣に、座った。
近づきすぎず。
けれど、声の届く距離に。
「今夜は、湯に入ってみませんか」
クララは、しばらく、黙っていた。
それから、小さく、頷いた。
役目という鎧を、長く着すぎたクララ。
「怒ってくれれば、いいのに」
優しさの前では、戦えない。
そして、クララが連れ戻しに来た、本当の理由が見えてきました。
エルシャが降りた役目を、クララが背負っていた。
彼女もまた、限界だったのです。
次は、クララが、里で初めて力を抜く話です。
読んでくださって、ありがとうございました。




