第19話 連れ戻しに来た人が、いちばん
その夜、クララは、初めて湯に入った。
最初は、ためらっていた。
「聖女が、湯治の里の湯に浸かるなんて」
そう言いながら、それでも、湯小屋に入った。
私は、外で待っていた。
しばらくして、湯小屋の中から、小さな声が聞こえた。
「……あたたかい」
それきり、声は、しなかった。
長い時間、クララは、湯から上がってこなかった。
私は、少し心配になって、声をかけた。
「クララ、大丈夫ですか」
返事が、なかった。
私は、そっと、湯小屋の戸を開けた。
クララは、湯の中で、眠っていた。
壁にもたれて、こくり、こくりと、舟をこいでいる。
緊張の糸が、湯の中で、ほどけたのだ。
私は、その寝顔を見た。
正しさを並べていたときの、張りつめた顔ではなかった。
ひどく、疲れた顔だった。
そして、ひどく、幼い顔だった。
私は、彼女を起こさなかった。
ただ、湯が冷めないように、薪を足した。
しばらくして、クララは、目を覚ました。
「……あ」
寝ぼけた声だった。
「私、眠って……?」
「ええ。気持ちよさそうでした」
クララは、慌てて、湯から出ようとした。
「すみません、はしたない。聖女が、こんな」
「いいんです」
私は、言った。
「ここでは、眠っても、誰も困りませんから」
クララは、湯の中で、動きを止めた。
そして、ゆっくりと、また、湯に身を沈めた。
湯気が、二人の間で、ゆっくりと立ちのぼった。
「エルシャ様」
クララが、静かに言った。
「私、もう、何年も……」
声が、震えていた。
「ちゃんと、眠っていなかったんです」
「ええ」
「いつも、何かに追われていて。誰かの役に立たないと、自分には価値がないと思って。だから、休めなかった」
クララの目から、涙が、こぼれた。
声を立てない、静かな涙だった。
「あなたが役目を降りたと聞いて、私、怒ったんです。ずるい、って。自分だけ、楽になって、って」
「……はい」
「でも、本当は」
クララは、涙を拭わずに、続けた。
「羨ましかったんです。降りられて、羨ましかった」
湯の音だけが、静かに響いていた。
「私も、降りたかった。でも、降りたら、誰がやるのって。私が降りたら、もう、本当に、誰もいなくなるって。だから、降りられなくて」
クララは、子どものように、泣いた。
連れ戻しに来た人。
正しさを並べた人。
その人が、いちばん、休みたかったのだ。
いちばん、止まりたかったのだ。
私は、彼女のそばに、座った。
癒すためではなかった。
説得するためでもなかった。
ただ、そばに、いるために。
「クララ」
私は、静かに言った。
「ここでは、降りても、いいんですよ」
クララは、私を見た。
涙に濡れた目で。
「少しの間だけ。連れ戻すことも、役目のことも、全部、忘れて。ただ、湯に浸かっていても、いいんです」
クララは、長い間、何も言わなかった。
そして。
こくり、と、小さく頷いた。
湯気が、二人を包んでいた。
谷の夜は、静かだった。
連れ戻しに来たクララが、いちばん、休みたかった。
これは、この物語で、いちばん書きたかった場面の一つです。
正しさを並べる人ほど、その正しさに、自分を縛られている。
クララは、湯の中で、ようやく、泣くことができました。
エルシャは、説得しませんでした。
ただ、そばにいました。
それで、十分だったのだと思います。
読んでくださって、ありがとうございました。




