第17話 急かさない人たち
朝になっても、クララは発たなかった。
正確には、発てなかった。
「馬が、疲れています」
クララは、そう言った。
「夜通し駆けてきたので。今日一日は、休ませないと」
それは、本当のことだった。
けれど、休む必要があるのは、馬だけではない気がした。
クララは、里の中で、明らかに浮いていた。
朝、誰もが、ゆっくりと起きてくる。
ゆっくりと湯を飲み、ゆっくりと食事をする。
その中で、クララだけが、せかせかと動いていた。
「朝の祈りの時間です」と言って、一人で祈り。
「次は身を清める時間です」と言って、一人で水を浴び。
里の誰も、そんな時間割では動いていなかった。
湯治客の老人は、相変わらず、咳をしながら湯を飲んでいた。
クララは、それを見て、眉をひそめた。
「あの方、咳をしておられます。なぜ、誰も手当てをしないのですか」
「手当てを、望んでないからね」
ハンナが言った。
「あの人は、咳と一緒に、ここにいるんだよ」
「理解できません。苦しんでいるのに、放っておくなんて」
クララは、老人のそばへ行こうとした。
聖女として、癒そうとして。
かつての、私と同じように。
「クララ」
私は、声をかけた。
「あの方は、苦しんでいません。ただ、咳をしているだけです」
「そんなはずは」
「見てください。穏やかな顔をしているでしょう」
クララは、老人を見た。
老人は、咳の合間に、湯をすすり、目を細めて、谷を眺めていた。
確かに、苦しそうではなかった。
「……でも、私たちは、癒すために」
「ここは、癒さない場所なんです」
私は、静かに言った。
クララは、立ち尽くした。
癒すことが、聖女の役目だと、信じてきた。
その役目が、ここでは、要らないと言われている。
クララの、足元が、揺らいでいた。
昼が過ぎた。
クララは、何もすることがなく、手持ち無沙汰にしていた。
里の者は、誰も、彼女に何かを求めなかった。
何かをしてほしいとも、言わなかった。
それが、クララには、耐えられないようだった。
「私は」
クララは、誰にともなく言った。
「役に立っていないと、ここにいる意味が、ない」
私は、その言葉に、胸を突かれた。
かつての、私だった。
役に立っていないと、ここにいる意味がない。
私も、ずっと、そう思っていた。
だから、与え続けた。
空っぽになるまで。
「クララ」
私は、言いかけて、やめた。
何を言っても、今のクララには、届かない気がした。
言葉ではなく。
ただ、時間が要るのだ。
里の時間が。
夜になった。
クララは、自分の寝床で、一冊の書を繰っていた。
聖女の祈りの書だった。
帳簿のように、几帳面に、書き込みがされていた。
何月何日、誰を癒した。
何月何日、誰に答えた。
役目の記録。
クララは、それを、何度も読み返していた。
まるで、自分がここにいる理由を、確かめるように。
私は、その姿を、遠くから見ていた。
声は、かけなかった。
ただ、彼女の寝床のそばに、湯気の立つ茶を、そっと置いた。
急かさない人たちの中で、クララだけが急いでいます。
「役に立っていないと、ここにいる意味がない」
それは、かつてのエルシャ自身の言葉でもありました。
クララの祈りの書は、帳簿のようでした。
役目の記録を読み返すことでしか、自分の居場所を確かめられない。
その姿は、少し、痛々しいものでした。
読んでくださって、ありがとうございました。




