第16話 正しさを持つ人
クララは、結局、湯に入らなかった。
食堂に通され、湯気の立つ茶を出されても、口をつけなかった。
「お気遣いは、ありがたいのですが」
クララは、背筋を伸ばしたまま言った。
「私は、用件を済ませに来ただけですので」
夜が更けていた。
ハンナは、もう休んでいた。
ノアは、湯小屋の方にいた。
食堂には、私とクララの、二人きりだった。
「エルシャ様」
クララは、まっすぐに私を見た。
「もう一度、申し上げます。聖堂に、お戻りください」
「……クララ」
「あなたがいなくなって、どれだけの人が困っているか、ご存じですか」
クララの声は、震えていなかった。
正しさだけが、そこにあった。
「癒しを待つ病人。導きを求める信徒。あなたを慕う子どもたち。みんな、あなたを待っています」
一つ一つが、刃のようだった。
正しいから、断れない。
正しいから、心が痛む。
「あなたは、選ばれた聖女です。役目には、責任が伴います。疲れたから、という理由で、投げ出していいものではありません」
私は、何も言い返さなかった。
クララの言うことは、すべて、間違っていなかった。
私は、確かに、途中で役目を降りた。
それを、無責任だと言われれば、その通りだった。
「どうして、何もおっしゃらないのですか」
クララは、少しだけ、苛立ったようだった。
「反論なさってください。言い訳でも、なんでも」
「言い訳は、ありません」
私は、静かに言った。
「あなたの言うことは、正しいです」
「なら――」
「正しいけれど、私は、戻りません」
クララの目が、見開かれた。
「正しさと、戻れるかどうかは、別の話なんです」
私は、自分の茶を、一口飲んだ。
「私は、空っぽになるまで、与え続けました。もう、注ぐ水が、残っていないんです。正しさだけでは、空の器に、水は戻りません」
クララは、しばらく、黙っていた。
それから、また、口を開いた。
「……理解できません」
その声には、怒りとは違う、何かが滲んでいた。
「役目を、降りるなんて。疲れたなんて。そんなこと、許されるはずがない」
私は、クララを見た。
許されるはずがない。
その言葉を、クララは、誰に向けて言っているのだろう。
私にではない気がした。
もっと、自分自身に向けて。
「クララ」
私は、静かに言った。
「あなたは、疲れていませんか」
クララの肩が、わずかに、揺れた。
「私は、疲れていません」
即答だった。
早すぎる即答だった。
「私は、大丈夫です。役目を、全うしています」
「そうですか」
私は、それ以上、訊かなかった。
踏み込まないこと。
ノアが、教えてくれた距離。
クララは、まだ、自分の鎧を脱ぐ準備が、できていなかった。
「今夜は、もう遅いです」
私は、立ち上がった。
「寝床を用意します。話の続きは、明日にしましょう」
「私は、明日には発ちます。あなたを、連れて」
「ええ。それでも、今夜は、休んでください」
クララは、唇を噛んだ。
「……どうして、誰も、私の言うことを真に受けないの」
その呟きは、独り言のようだった。
私は、答えなかった。
ただ、湯気の立つ茶を、彼女の前に、もう一度、そっと押した。
飲んでも、飲まなくても、いいように。
連れ戻しに来たクララは、正しさを並べます。
そして、その正しさは、間違っていません。
正しいからこそ、エルシャは争いません。
「正しさと、戻れるかどうかは、別の話」
クララは、まだ自分の鎧を脱げずにいます。
でも、その鎧の重さに、少しずつ、ひびが入り始めています。
読んでくださって、ありがとうございました。




