5
アッカディア領の境界線にある、古びた関所の跡。
かつては密輸を監視するために作られた場所だが、今ではすっかり風化し、崩れかけた石壁に蔦が絡みついている。現在は急速に工事を進め、要塞化を急いでいる。
俺はリリアーヌと護衛のバルトを連れて、その場所へ向かっていた。
彼女の乳母だったという女性、マーサとの再会。
リリアーヌの震える指先が、彼女の不安を物語っていた。俺は馬を並べ、彼女の手を優しく握りしめる。
「大丈夫だ。俺がついている」
「……はい。ありがとうございます、レノス様」
彼女は小さく頷いたが、その表情は硬いままだ。
王都での凄惨な日々が、彼女の心に刻んだ傷はまだ完全には癒えていない。
関所で止められているの一人の初老の女性が姿を現した。
質素な旅装束を身に纏っているが、その背筋はピンと伸び、どこか高潔な空気を纏っている。彼女はリリアーヌの姿を認めると、駆け寄るよりも先に、その場に深く膝を突いた。
「……リリアーヌ様。おいたわしい事態で……。いいえ、以前よりもずっと、気高く、お美しくあらせられる」
「マーサ!」
リリアーヌは馬から飛び降りるようにして駆け寄り、老婆を抱きしめた。
二人の目から涙が溢れる。再会を喜ぶ二人を、俺とバルトは少し離れた場所で見守っていた。だが俺の意識は周囲の木々に向けられていた。
……異様な気配がある。
リリアーヌのマナの最適化によって研ぎ澄まされた俺の感覚が、森の中に潜む「異物」を捉えていた。
「マーサ、手紙にあった『王太子殿下の動き』について、詳しく教えて」
リリアーヌが涙を拭いながら尋ねる。
マーサは周囲を警戒するように見渡し、声を潜めた。
「公爵閣下は、リリアーヌ様を追放したことを後悔しておいでです。……いえ、失った才能の大きさに気づかれた、と言うべきでしょうか。アッカディア領が急激に豊かになった原因が、リリアーヌ様の力にあると、王太子セドリック殿下が看破されました」
マーサの言葉に、俺の胸の奥で冷たい火が灯った。
「殿下は、リリアーヌ様を『王国の至宝』として迎え直すとおっしゃっています。形式上は追放の取り消しと、殿下との新たな婚約……。ですが、その実態は、あなたを一生王宮の地下に閉じ込め、国家のマナ計算をさせるための『生ける魔導具』にすることです」
「……そんな……」
リリアーヌの顔が、一瞬にして灰色に変わった。
『生ける魔導具』。それは尊厳を奪われ、ただ効率のために計算を強要される、出口のない牢獄だ。
「レノス卿。……いえ、アッカディア領主様」
マーサが俺に向き直り、鋭い眼光を向けた。
「リリアーヌ様を、お返しなさい。今ならまだ『保護していた』という名目が立ちます。王太子殿下に楯突けば、この領地は軍事介入の名目で灰に帰すでしょう」
「断る」
俺は即答した。一秒の迷いもなかった。
「……何とおっしゃいましたか?」
「彼女を返すつもりはないと言ったんだ。マーサさん、あんたは彼女を心配してここへ来たんだろうが、話の前提が間違っている」
俺は馬を降り、リリアーヌの肩を抱き寄せ、マーサを真っ直ぐに見据えた。
「リリアーヌは道具じゃない。俺の領民であり、俺のパートナーであり、何より俺が愛すると決めた一人の女性だ。……それを奪おうとするなら、相手が王太子だろうが悪魔だろうが、俺は全力で叩き潰す」
「……っ」
リリアーヌが、信じられないものを見るような目で俺を見上げた。
その瞳に再び強い光が宿る。
「マーサ。私は……私は帰りません。この地で、レノス様と共に生きると決めました。ここには私の居場所があり、私の力が必要とされています。王宮の冷たい石畳よりも、アッカディアの温かい泥の方が、私には何倍も誇らしい」
「……左様ですか。そのお言葉を、お待ちしておりました」
マーサが、ふっと表情を和らげた。
だが、その直後、彼女の背後の森から、数本の「光の矢」が放たれた。
「――敵襲!」
「はっ!」
バルトと工事を見守る兵士達が瞬時に剣を抜き放ち、盾を構え魔法の矢を叩き防ぐ。
森の中から、白銀の甲冑に身を包んだ男たちが次々と現れた。王太子直属の精鋭騎士団だ。
「……やれやれ。交渉決裂、というわけか。こんな田舎連中を殺しても何の語り草にもならん」
騎士たちの中心から、一人の男が優雅に歩み寄ってきた。
燃えるような赤髪に、尊大な笑みを浮かべた美男子。リリアーヌの元婚約者、王太子セドリック。
「久しぶりだね、リリアーヌ。泥遊びはもう十分だろう? 君のような貴重な宝石が、こんな田舎貴族の懐に収まっているのは、国家的な損失なんだよ」
セドリックは俺を一瞥すらせず、リリアーヌに手を差し出した。
「さあ、戻ろう。君の力があれば、我が国は大陸最強の帝国にもれる。君には相応しい地位と、贅沢を与えて授けてやろう」
リリアーヌは、俺の腕を強く握りしめ、セドリックを睨みつけた。
「殿下……。私は贅沢を求めたことなど一度もありません。私が欲しかったのは、ただ一人、私の『存在』を見てくれる人でした。……あなたにとって、私はただの便利な道具でしかなかった!」
「道具? 素晴らしい褒め言葉じゃないか。性能の良い道具を愛でるのは、主として当然の義務だ」
セドリックの言葉に、俺の堪忍袋の緒が完全に切れた。
「……セドリック殿下」
俺は一歩前へ出た。
「道具、道具と、耳にタコができる。あんたのその貧相な想像力じゃ、彼女の本当の価値は一生理解できないだろうな」
「黙れ、辺境の小蠅が。王太子である私に口を利く不敬、その命で償わせてもいいのだぞ?」
「できるものならやってみろ。……リリアーヌ」
俺が彼女の名を呼ぶと、彼女はすぐに俺の意図を察した。
「はい、レノス様。……戦場の魔力、すべて呼び出します」
彼女が両手を広げ、呪文ではなく「命令」を紡いだ。
「――大気の流れを収束。地面のマナを固定。敵対者の魔力回路に『摩擦』を発生させなさい!」
一瞬、空気がピリリと震えた。
セドリックの背後に控えていた魔導師たちが、突然苦しみ出し、杖を放り出した。
「な、何だ!? 魔力が……魔力が制御できない!」
「杖が熱い! 術式が暴走している!」
リリアーヌの能力は、直接的な攻撃ではない。
だが彼女の表情が、なにかおかしい。
馬の鼻面が割れ、鉄錆の匂いが混じった熱気が、俺の頬を叩く。
セドリック王太子が率いる近衛兵騎士団の小隊。その白銀の甲冑は、もはや栄光の象徴ではなく、リリアーヌの「才能」を剥ぎ取らんとする強欲な剥製に見えた。剣戟の音が耳を刺し、剣を握る拳には、指が白くなるほどの力がこもる。
ドンッ!
大地が、まるで巨大な獣の顎が開くように裂けた。
噴き上がった土煙の中から現れたのは、他国で恐れられている怪物。シェルウィング(巨躯有翼蠍)だった。
その姿は、一瞬にして周囲の岩肌や木々の色彩を吸い込み、景色の中に溶け込んでいく。姿の見えない死神。近衛兵たちの悲鳴が上がるよりも早く、擬態した尾の先から、無数の毒針が豪雨のごとく放たれた。
「魔法が……効かないのか!?」
騎士たちの放つ炎も氷も、シェルウィングの硬質な外殻を虚しく滑り落ちる。物理的な質量を伴う圧倒的な暴力の前で、王家の威光など紙屑に等しい。鎧の隙間を的確に穿たれた騎士たちが、言葉を失い、黒い血を吐きながら次々と土に還っていく。
「今だ、退却する!」
俺はリリアーヌを抱え、兵士たちに怒号を飛ばし、愛馬の脇腹を蹴る。
阿鼻叫喚の戦場を背に、俺たちは泥を跳ね上げ、領内の奥へと逃げる。リリアーヌの体温は、驚くほど低かった。
「……見事だ、リリアーヌ。君の機転が、我らを救った」
荒い呼吸を整えながら、俺は彼女を称えた。あの化け物を利用したのだとしたら、これほど心強い味方はいない。だが、俺の言葉に応えた彼女の声は、幽かな震えを帯びていた。
「……ち、違います。レノス様、私は、あんな恐ろしいものを呼ぶつもりなんて……」
「なに!?」
「私が呼び出したのではありません。あれは……」
リリアーヌはそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。
俺はその答えを拾い上げることも、彼女を慰めることもせず、ただ沈黙を選んだ。
背後からは、まだ騎士たちの骨を砕く音が響いている。
彼女が意図したか否かなど、もはや重要ではない。ただ、私たちが解き放ってしまった「何か」の重みだけが、馬の足取りをより一層、深く重くしているようだった。
その夜。
アッカディアの領主館で、俺とリリアーヌは二人きりでテラスに立っていた。
騒動の後、領民たちは俺たちの勝利を祝うために、街のあちこちで焚き火を囲んで宴を開いていた。遠くから聞こえる笑い声が心地よい。
「レノス様。私……今日、初めて自分の力を誇らしいと思いました」
リリアーヌが、夜風に銀髪をなびかせながら言った。
「誰かを傷つけるためではなく、あなたを守るために力を使えた。……それが、とても嬉しかったんです」
「俺の方こそ、君に助けられたよ。あの力がなんであれ。無事に生き延びられた」
俺は彼女の横顔を見つめ、そっとその手を握った。
「王太子が言った通り、これからアッカディアは王都と対立することになるかもしれない。……苦労をかけるな」
「いいえ。……あなたと一緒なら、どんな困難も怖くありません」
彼女は俺の手を握り返し、幸せそうに微笑んだ。
「レノス様。……私を、これからもずっと、独占してくださいますか?」
その問いに、俺は答えの代わりに彼女を引き寄せ、深い口づけを交わした。
アメジストの瞳が、驚きから甘い熱を帯びてとろけていく。
王都がどう動こうと関係ない。
この手の中にいる唯一無二の宝石を、俺は決して離さない。
彼女の才能も、心も、そのすべては俺だけのものだ。
アッカディアの夜は更けていく。
だが、俺たちの物語――「無能」と蔑まれた令嬢と、彼女を救った領主の俺の反逆劇は、まだ幕を開けたばかりだ。




