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アッカディア領に春が訪れたような喧騒が続いていた。
『沈黙の平原』の再生は、単なる食料問題の解決に留まらない。それは領民たちの心に「自分たちは世界から見捨てられていない」という強烈な希望の灯をともした。
だが、その灯火が眩しすぎれば、暗闇に潜む「欲」という名の鴉を呼び寄せることになる。
王都からの調査団が到着したのは、平原の再生からわずか十日後のことだった。
「……あれが、例の連中か」
領主館のバルコニーから、街道を砂埃と共に進んでくる一行を見下ろす。
王家の紋章を掲げた無駄に立派な馬車。それを取り囲むのは、最新の魔導鎧に身を包んだ近衛騎士たちだ。辺境の視察にしては、あまりにも過剰な装備。彼らの目的が「調査」ではなく「接収」や「監視」にあることは明白だった。
「レノス様……」
背後から、不安げな声が響く。
振り返ると、リリアーヌがカーテンの陰で震えていた。その手は、自分の胸元をぎゅっと掴んでいる。
「リリアーヌ、部屋へ戻っていていいんだぞ。君を彼らの前に出すつもりはない」
「……いいえ。いつまでも逃げているわけにはいきません。それに、彼らが来ると分かっていたからこそ、昨夜のうちに『準備』を整えたのです」
リリアーヌは、伏せていた顔を上げた。その瞳には、かつての絶望はもうない。あるのは、自分を救ってくれた俺のために戦おうとする、静かな覚悟だ。
「昨夜の準備……ああ、例の鉱山の件か」
「はい。アッカディア領の東側に眠る精霊砂の鉱脈。あそこの魔力経路を、私の力で『断絶』させました。外部からの探知魔法には、ただの岩山にしか映らないはずです」
彼女は小さく微笑んだ。
それは、かつて王都で虐げられていた時には決して見せなかったであろう、悪戯っぽくも頼もしい微笑みだった。
「君は本当に、最高のパートナーだよ」
俺は彼女の頭を軽く撫でた。柔らかい銀髪が指の間を滑る。
彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、幸せそうに目を細めた。
────
領主館の応接室。
そこに座っていたのは、いかにも「王都の貴族」といった風貌の男だった。
名をヴァレウス伯爵。王立魔導学院の理事も務める男で、リリアーヌの父であるエルシュタイン公爵とも知己があるはずだ。
「やあ、レノス卿。変わりはないかな? この寒々しい土地で、随分と苦労していると聞いていたが……」
ヴァレウスは、差し出された茶に目もくれず、窓の外を眺めた。
「道中、驚かされたよ。特に見えるあの『沈黙の平原』が、まるで王都の王立公園のように緑に溢れているではないか。一体、どのような手品を使ったのかね?」
「手品などではありませんよ、閣下。アッカディアの土地が、ようやく眠りから覚めた。ただそれだけのことです。神々の気まぐれでしょう」
俺は努めて穏やかに、事務的な笑みを返した。
「眠りから覚めた、か。ふむ。だが、魔導省の観測によれば、あの一帯には局所的かつ極めて高密度な『事象の書き換え』が行われた形跡があるという。これは自然現象ではありえん。神々がこんな土地にわざわざ干渉されるとも思えん。……もしや、強力な古代遺物でも見つけたのではないか?」
ヴァレウスの瞳が鋭く光る。
彼らの狙いはこれだ。アッカディアが豊かになった理由を「物」に求め、それを王都に持ち帰ろうとしている。
「残念ながら、そのような便利な物はありません。あるのは、領民たちの血の滲むような努力と、アスクロノリュフィア(運命の女神)に味方された気候の変動だけです」
「ほう……。ならば、その『幸運』とやらを確認させてもらおう。我々調査団は、明日から領内全域の魔力測量を行う。特に東の岩山付近だ。あそこからは、微かだが良質な魔力の残滓を感じる」
心臓が跳ねた。
東の岩山。リリアーヌが言っていた鉱脈がある場所だ。
だが俺は顔に出さない。
「もちろんです。どうぞ、ご自由に。……ただ、アッカディアの山道は険しいですから。経験のない近衛の方々が怪我をされないよう、お気をつけて」
「……不敵な物言いだな、田舎貴族が」
ヴァレウスが苛立ちを露わにした、その時だった。
応接室の扉が静かに開き、リリアーヌがトレイを持って入ってきた。
俺は息を呑んだ。彼女には部屋にいろと言ったはずだ。
「失礼いたします。お茶のお代わりをお持ちしました」
彼女は深く頭を下げ、顔を隠すようにしてヴァレウスの前に立った。
だが隠しきれないその気品と、独特の銀髪。
「……ん? 君は……」
ヴァレリウスが身を乗り出す。
「どこかで見た顔だな。……まさか、エルシュタイン家の……追放されたはずの『無能令嬢』か!?」
空気が凍りついた。
リリアーヌの手が、微かに震える。
「……リリアーヌ・エルシュタインです。今は、レノス様の館で侍女としてお仕えしております」
彼女は震える声を押し殺し、毅然と答えた。
ヴァレウスは一瞬、呆然とした後、下品な高笑いを上げた。
「ハハハ! 傑作だ! エルシュタイン公がゴミ同然に捨てた娘を、わざわざ拾い上げたというのか、レノス卿! 類は友を呼ぶとはまさにこのことだな。無能な領地には、無能な令嬢がよく似合う! ガッハッハ!」
俺の中で、何かがブチリと切れる音がした。
だが、ここで激昂すれば奴の思うツボだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、リリアーヌの隣へ歩み寄った。そして彼女の肩を抱き寄せ、ヴァレリウスを冷たく見下ろした。
「閣下。言葉には気をつけられた方がいい。彼女は、私の領地を救ってくれた大切な賓客です。それを侮辱することは、アッカディア領そのものを侮辱することと同義だ」
「フン、脅しのつもりか? 事実を言って何が悪い。彼女は魔導学院でも最下層、魔法の一つも使えん欠陥品だ。そんな女に現を抜かしているから、お前の領地はいつまでも――」
「魔法、ですか」
リリアーヌが、静かに口を開いた。
彼女は俺の腕の中から一歩踏み出し、テーブルの上に置かれたヴァレウスの魔導杖を見つめた。
「閣下のその杖……王都の工房で特別に調整されたものですね。ですが、術式の回路が非常に非効率です。マナの変換効率が40%もロスしています。だから、先程から閣下の手のひらに余剰熱が溜まって、少し痛むのではありませんか?」
「……何だと?」
ヴァレウスの顔が引き攣った。図星だったのだろう。
「数インチ、左にずらして刻印を打ち直すだけで、ロスは0%になります。……それが、私の『無能な力』です」
彼女はそう言い捨てると、優雅に一礼して部屋を去っていった。
残されたヴァレウスは、顔を真っ赤にして絶句している。
「……レノス卿、今の女の言葉は……!」
「彼女の言うことは、常に正しい。……閣下、調査は明日でしたね? 今日はもうお休みください。アッカディアの『無能なもてなし』を、存分に味わっていただきたい」
俺はヴァレリウスを追い出すようにして応接室を後にした。
───
夜。
月明かりが差し込む廊下で、リリアーヌが一人、窓の外を眺めていた。
「……怖かったか?」
俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らしたが、すぐに柔らかい表情になった。
「はい。……でも、それ以上に、あなたを馬鹿にされたことが許せなかった。私が、レノス様の領地を誇りに思っていることを、あの方に知らしめたかったんです」
彼女の瞳には、強い光が宿っていた。
かつての、泥にまみれていた令嬢の面影はどこにもない。彼女は今、この領地の一部として、俺と共に立っている。
「ありがとう、リリアーヌ。おかげで胸がスッとしたよ」
「いえ、勝手な真似をして、すみませんでした。部屋にいるように言われたのに……」
俺は彼女の手を取り、そっと指先に触れた。
「俺は君から自由を奪い去ったりはしない。君が決めた事なら、間違いかどうか問いただす前に、君と一緒に問題に向き合いたい」
「レノス様……」
「明日の調査、奴らは必ず東の岩山へ向かう。鉱脈を見つけるつもりだ。……だが、君の力があれば、彼らは何も見つけられずに帰ることになる。そうだな?」
「はい。……それどころか、あの一帯には、時より『迷いの霧』が出るような環境です。マナの流れを急激に乱高下して調整した以上、彼らは一日中、岩山をぐるぐると回り続けることになるでしょう」
リリアーヌは少しだけ悪戯な笑みを浮かべた。
その美しさに、俺の心臓が不規則な鼓動を刻む。
「調査をしたいと言っている以上、教えてやる必要もないな。」
「ンフフ♪ レノス様……。私、あの方に『無能』と言われても、もう傷つきませんでした。だって、今の私は……あなたに必要とされている。それだけで、私の価値は証明されているから」
彼女は俺の手に自分の手を重ね、ぎゅっと握りしめた。
「私は、あなたの力になりたい。この領地を、どこよりも豊かに、どこよりも幸せな場所にしたい。それが、私を救ってくれたあなたへの、たった一つの恩返しです」
「恩返し、か。……俺にとっては、君が隣にいてくれるだけで十分すぎる報酬なんだけどな」
俺は彼女の細い腰を引き寄せ、その耳元で囁いた。
「明日、奴らを追い返したら、二人で東の岩山へ行こう。……君が見つけた、あの銀の輝きを、俺に最初に見せてくれ」
「……はい、レノス様。喜んで」
月光の下、俺たちは誓いのように見つめ合った。
王都の鴉どもがどれだけ騒ごうと、この地の資源は渡さない。それは領民達やリリアーヌの為に使う。
アッカディアの真の繁栄は、ここから加速していくんだ。
ヴァレリウス伯爵率いる調査団が、濃い霧に包まれた岩山の中で、空の太陽すら見失って右往左往することになるのを――俺とリリアーヌは、温かい野菜たっぷりスープを味わいながら、優雅な高みの見物と決め込むことにした。




