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リリアーヌがこの領地に来てから、早三日が過ぎた。
執務室の窓から見える庭園は、三日前までの寒々しい風景が嘘のように、青々とした緑に覆われている。たった数個の魔石の配置を変えただけで、土地の「呼吸」が変わったのだ。いや、『正確に変えた』と言うべきか。
「レノス様、お茶をお持ちしました」
扉が開くと、リリアーヌが入ってきた。
館の侍女たちが「こんなに美しいお方は見たことがない」と総出で世話を焼いたおかげで、今の彼女は、かつての公爵令嬢としての輝きを完全に取り戻していた。
光の加減で紫から銀へと色を変える滑らかな髪、そして、少しずつ生気が戻り始めたアメジストの瞳。
「ありがとう、リリアーヌ。……あまり無理はしないでいいと言っただろう? 君はまだ、休養が必要な身だ」
「いいえ。何もせずにはいられません。レノス様に救っていただいたこの命……一刻も早く、あなたの、そしてこの領地のお役に立ちたいのです」
彼女はトレイを置き、俺の隣でじっと地図を見つめた。
その真っ直ぐな瞳には、強い意志が宿っている。
「……リリアーヌ、君が昨日見せてくれたあの『魔法の最適化』。あれは、もっと広い範囲にも適用できるのか?」
俺の問いに、彼女は少しだけ考え込むように首を傾げた。
「理論上は可能です。ただ、範囲が広くなればなるほど、調整すべき『結び目』の数が増えます。それに、土地そのものが持つ属性……アッカディアの場合は『風』と『土』の不均衡が激しすぎます。これを正すには、起点となる場所を叩く必要があります」
「起点、か……」
俺は地図の一角を指差した。
アッカディア領の北方に広がる、通称『沈黙の平原』。
かつては豊かな麦畑だったというが、百年ほど前から魔力の流れが完全に途絶え、今では雑草すら生えない不毛の荒野と化している。ここが再生すれば、領内の食料自給率は一気に跳ね上がり、冬のギリギリの備蓄に怯えることもなくなる。
「ここを、君の力で再生させることはできるか?」
リリアーヌは地図をなぞり、その瞳に再び黄金の幾何学模様――【事象の最適化】の演算回路を浮かび上がらせた。
「……ここですね。この地下を流れるマナの脈動が、巨大な岩盤によって遮断されています。そのせいで魔力が地上に届かず、土が『死んで』いる。……レノス様、私をそこへ連れて行ってください」
「ああ、もちろんだ。明日、準備を整えて出発しよう」
────
翌朝、俺とリリアーヌ、そして護衛数名を連れて『沈黙の平原』へと向かった。
馬を走らせること数時間。目の前に広がったのは、亀裂の入った大地と、灰色の土がどこまでも続く、相変わらずの、まさに死の世界だった。
「ひどい……。王都では、アッカディアは『石ころの領地』だと笑われていましたが、これほどまでとは」
馬を降りたリリアーヌが、痛ましそうに地面に膝をついた。
彼女は細い指で乾いた土を掬い上げ、そっと目を閉じる。
「……聞こえます。この下で、魔力が苦しそうに、出口を探してのたうち回っているのが」
「レノス様、本当に行くのですか?」
護衛の騎士、バルトが不安げに尋ねてきた。
「ここは昔から呪われていると言われています。魔導師たちが何度も儀式を行いましたが、誰一人としてこの土地を癒やすことはできなかった、呪いの地です……」
「バルト、彼女を信じろ。彼女は、王都の魔導師たちが束になっても見抜けなかった『本質』を見抜いたんだ」
俺がそう言うと、リリアーヌは驚いたように俺を振り返った。
自分を信じ、全幅の信頼を寄せる俺の視線を受け、彼女の頬が微かに朱に染まる。
「……はい。レノス様の信頼に応えてみせます」
彼女は平原の中央へと歩き出した。
風が吹き荒れ、銀色の髪が乱れるが、彼女はひるまない。
立ち止まった彼女は、懐から小さな小瓶を取り出した。中には、昨日俺が渡した『最低ランクの魔石の粉末』が入っている。
「始めます」
リリアーヌが呟くと同時に、彼女の体から圧倒的なまでの輝きが溢れ出した。
それは、攻撃魔法のような荒々しい光ではない。
夜明けの光のように優しく、それでいて揺るぎない秩序の光。
「あそこに一つ。……そこに一つ。……そして、ここに最後の一つ」
彼女は舞うようにステップを踏みながら、魔石の粉末を大地に撒いていく。
その動きは、まるで複雑なパズルの最後のピースをはめていくかのような、極限の精密さを感じさせた。
「……繋がれ!」
彼女が地面を強く踏みしめた、その瞬間だった。
ドン……!
大地の奥底から、巨大な心臓が拍動したような重低音が響いた。
護衛たちが慌てて剣を抜くが、これは敵の襲来ではない。
大地の咆哮だ。
「見てください! 地面の色が!」
バルトが叫んだ。
リリアーヌの足元から、灰色の土がみるみるうちに黒々とした、湿り気のある肥沃な土へと変わっていく。
それだけではない。
地下に閉じ込められていた魔力が、彼女が作った『道』を通って地上へ噴き出し、空気そのものを書き換えていく。
「……うそだろ……」
俺は目を見張った。
一分前まで草一本生えていなかった荒野に、小さな緑の芽が、あちこちから顔を出し始めたのだ。
それは、自然の摂理を数百年分加速させたかのような、圧倒的な生命の爆発だった。
「はぁ、はぁ……っ」
光が収まり、リリアーヌの膝が折れそうになる。
俺は咄嗟に駆け寄り、彼女の細い腰を抱き止めた。
「リリアーヌ! 大丈夫か!?」
「……レノス様……。やりました。マナの通り道を……最適化、しました……。もう、ここは死んだ土地ではありません……」
彼女は疲れ切った顔で、けれど最高に満足げな笑みを浮かべて俺の胸に寄りかかった。
その温もりと、成し遂げたことの大きさに、俺の胸は熱くなる。
「すごいよ、リリアーヌ。君は、この領地を救ったんだ。いや、世界を救ったと言っても過言じゃない」
「……私は……ただ、あなたのお役に立ちたかっただけです」
彼女のアメジストの瞳が、潤んで俺を見上げる。
その潤んだ瞳に映っているのは、英雄としての誇りではなく、ただ一人の男に認められたいと願う、恋する乙女の顔だった。
バルトたち護衛は、奇跡を目の当たりにして口をポカンと開けて言葉を失い、ただその場に立ちすくんでいた。
彼らにとって、この平原の再生は神話の出来事に等しい。そしてその神を導いたのが、自分たちの若き領主と、彼が連れてきた謎の女性なのだ。
「……レノス様」
「なんだ?」
「この力……王都では、ずっと隠していました。見せても、誰も理解してくれなかったからです。でも、あなたなら……あなたなら、この力を正しく使ってくれる。そう、直感したのです」
彼女は俺の服の裾を、ぎゅっと握りしめた。
「私を……捨てないでくださいね。この力が続く限り……いいえ、尽きたとしても。あなたの側で、この地を見守らせてください」
その言葉に、俺の中の独占欲が首をもたげる。
こんな素晴らしい女性を、なぜ王都の連中は捨てたのか。なぜ、彼女の価値に気づかなかったのか。
……いや、気づかなくてよかった。
もし彼らが彼女の価値を知っていれば、彼女は今頃、王家の道具として、あるいは有力貴族の座興として、檻の中の鳥のように扱われていたはずだ。
だが今ここにいる彼女は、俺が見つけ、俺が救った、俺だけの宝石だ。
「捨てるはずがないだろう。リリアーヌ、君は俺の……アッカディアの至宝だ」
俺は彼女の額に、誓いを立てるように軽く口づけた。
彼女は顔を真っ赤にして、幸せそうに目を閉じた。
────
数日後。
『沈黙の平原』に緑が戻ったというニュースは、瞬く間にアッカディア全土を駆け巡った。
領民たちは最初こそ半信半疑だったが、実際に草花が咲き乱れ、豊かな土壌が戻った平原を見て、狂喜乱舞した。
「領主様! ありがとうございます!」
「これで、冬に子供たちを飢えに怯えなくて済む!」
「あのお方は女神様だ! アッカディアの聖女様だ!」
館の門前には、連日、領民たちからの感謝の工芸品が積み上げられた。
そして中には、山積みの山菜、美味しい木の実、丁寧に編まれた手作りの防寒具まであった。
俺は執務室で、それらの報告を受けながらリリアーヌと向き合っていた。
「聖女、か。いい響きじゃないか、リリアーヌ」
「……恥ずかしいです。私はただ、少しだけ計算を変えただけなのに」
彼女は照れくさそうに顔を伏せるが、その表情は以前よりずっと柔らかく、自信に満ちている。
だが領地が豊かになれば、当然ながら不都合なことも起きてくる。
俺は机の上に届いた、一通の親書を手に取った。
王都からの、緊急の書状だ。
「……どうしたのですか、レノス様?」
「いや、王都の魔導省が、アッカディアの急激な魔力反応の増大を感知したらしい。『調査団を派遣する』と言ってきている」
リリアーヌの顔から、さっと血の気が引いた。
彼女の脳裏には、自分を切り捨てた王都の冷酷な人々の顔が浮かんでいるのだろう。
「大丈夫だ。君のことは、誰にも渡さない。」
俺は書状を握りつぶし、リリアーヌの肩を抱き寄せた。
「君を無能だと笑った奴らに、君の今の輝きを見せる必要はない。彼らが君を欲しがっても、もう遅いんだ。アッカディアは、君を守り抜く力を持ち始めている」
「レノス様……」
「それに、今回の君の力で、この領地からは未知の鉱脈が見つかりそうな予感がしているんだ。リリアーヌ、君の計算によれば、東の岩山はどうなっている?」
彼女は少し震える声で、けれど俺の腕の温もりに支えられるようにして答えた。
「……あそこには、膨大な魔力を秘めた『精霊の砂』の原石が眠っています。……それも、王都にあるどの鉱山よりも、純度が高いものが」
俺はニヤリと笑った。
食料、そして莫大な資金源となる鉱脈。
これさえあれば、アッカディアはもはや、王都の顔色を伺う必要のない独立都市国家並みの力を得ることができる。
「よし。調査団が来る前に、採掘の準備を整えよう。王都の連中には、適当な理由をつけて追い返してやる。……君の才能は、俺が独占する。誰一人として、君の承諾なしに指一本触れさせはしない」
リリアーヌは、俺の胸に顔を埋め、小さく「はい」と答えた。
彼女の独占権。それは、俺が命を懸けて守るべき、世界で最も甘美な権利だった。
俺たちの快進撃は、まだ始まったばかりだ。
このアッカディアが、いつか王都を凌駕する繁栄の都となるまで――俺は彼女と共に、この道を歩み続ける。




