第29話 既視感
「下宿のトイレよりもずっと綺麗だけど、やっぱりちょっとトイレって怖いね」
トイレを出て手を洗っていると、ベルチカも出てきた。
「そうかな。リガノに比べたらずっと楽だし、清潔だから王都のトイレは好きだよ」
「あなた、リガノの出身なの?」
「えっ……うん、前に居たところ」
うっかり話してしまったけど、家のことじゃないから大丈夫かな。
「この制服も、脱いだり着たりしやすくていいわよね。お母さまも独りで着られるから好きって言ってたわ」
外套を留めていたベルチカが、上着をめくって、スカートの留め具を見せながら言う。女性物の服で、上下に分かれた服は珍しい。着やすいし、とってもかわいい。
「ベルチカのお母さまも学院の生徒だったの?」
「そうよ。それも1期生! アンリット様に直接、教えていただいて――」
ただ、自慢げに話していたベルチカはそこで息を飲んだ。
化粧室の戸のない入り口に人の気配が――衣擦れか、足音かなにかわからないけれど――感じられた。
「――なに?」――とベルチカが言うと同時に、その入り口に立つフードを目深に被り、外套をまとった大きな人影! それもふたつ! そのうちのひとりは呪文のようなものを唱え始めた!
「ベルチカ、魔法抵抗を! 眠りの呪文です!」
言ってから気が付く。何の話をしているのだろうか――と。
戸惑っている間に、ベルチカは膝の力が抜けて崩れ落ちる。
私は慌てて彼女を支え、化粧室の床に座り込んだ。
「効いていない!?」
「馬鹿な! こんな小娘が!」
声はどちらも女性。呪文を使わなかった方の女性がキラリと光る小さな白刃を手に、私たちへと駆け寄る!
「やめて!」――声を上げ、意識のないベルチカを身体で庇うように抱きしめる。
するとその女性は私を前にして立ち止まった。
「いいだろう。手荒なことはしない。大人しくこちらの指示に従いな」
「ベルチカは!」
「用があるのは黒髪のお前だよ。さあ、立つんだっ!」
ベルチカをゆっくり寝かせて、私は立ちあがった。すると、後ろの女性が大きなリネンの袋を広げる。
「騒ぐなよ? いつでも刺せるんだ。それに、この子だって無事では済まない」
私は大袋を頭から被せられると、肩に担ぎ上げられた。
同時に、身体の奥底にある恐怖を刺激されたように、ぞわりと体中の毛が逆立つような感覚に囚われ、頭の中をいろんな思考が駆け巡った!
(前にも似たようなことが……どこかへ連れ去られる!? だけど、寮から出るには階段を通らないといけない! 1階には今、大勢人が居る。外は吹雪だ。寮の外へも出られるとは思えない! 前から計画されていた? 誰に。何の目的で。今ここで使える呪文は? 呪文?? 考えているのは私? 私はいったい……)
ただ、女のひとりはまた別の呪文を詠唱した。なんだろう……その呪文にも何か聞き覚えがあった。ともかく、私は肩に担がれたままで、外套を探った。外套には、小杖が差し入れてあったから。
◇◇◇◇◇
階段を降りていくのがわかる。そして1階まで降りたのだろうか、周囲に大勢の人の気配が感じられる。
そこで私は助けを求めて声を上げた!
「助けて! 攫われる! 誰か助けて!」
叫んだ途端に、太腿を硬い物で小突かれた。
「騒ぐんじゃないよ! 約束も守れないのかい!?」
周りに人の声がするのに、私の声が届いていない。どうして!?
私はナナカマドの杖の先端を、大袋の縫い目に突き込んだ。
どんどん人の声が遠ざかっていく。必死で杖を突き込み、ようやく小さな穴が開くと、そこから外を覗く。1階の廊下のどこかの扉の前。そこで、もうひとりが、まるで盲目の者が扉を探り当てるかのように壁や扉を触っていた。やがてその手はノブに触れる。
「あった。これだ」
そう言った女が、さらに呪文を唱えると、カチャリと錠の開いた音がする。
(外!? 違う……)
扉の先は外の景色ではなかった。暗い……寮の中にしてはあまりに暗い闇が広がっていた。
今を逃しては他に無いと、私は空いた大袋の穴から、ナナカマドの杖を突き出した。
カラン――と乾いた音を立てて床に落ちた小杖。
音に気付かれたかと身を縮めたけれど、同時に、ギュイ!――と扉の蝶番がきしむ音と、それに慌てたふたりが扉の中へ急ぎ、戸を閉めたために小杖は見つからなかった。
暗闇で女のひとりがどこかから灯りを取り出し、周囲が照らしだされる。
そこは、地下へと続く階段だった。だけど、料理場や秘儀の間へ続くような階段ではなかった。もっと狭くて薄気味悪い……造りのとても古い階段。
「本当にこんな場所があったなんてね……」
「前の古い建物の地下がそのままなんだってさ。さあ、無駄口叩いてないで行くよ」
コツコツ――と、石の階段を下りていく靴音が響く。狭い階段を下りた先、少し広がっているけど部屋の中までは見渡せない。カチャカチャと音がして、今度は鉄の格子扉が開かれる。
通路をさらに進むと、左手には牢が並んでいた。誰かが入っているわけでもない。
いくつもある牢の前を通り過ぎると、大袋から出された。
そこは牢の中だった。
「さて、悪いけど腕は縛らせてもらうよ。魔術師の祝福があるみたいだからね。錠を開けられては困る」
そうして、どこからか持ち出してきた手枷を私に嵌めた。
「私はいつまでここに入れられるのですか?」
問うと、ふたりとも一瞬、言葉を失くした。
「……攫われたってのに妙に落ち着きがある子だね。なぁに、私たちだって子供を殺すのは寝覚めが悪い。ほんのしばらくの間、ここに居てくれれば何もしやしないさ」
その言葉には信用がおけなかった。だけど、今、ナイフを持ち出されるのは困る。




