【第1章 第10話:言葉にできない拒絶】
それは、最初は誰にも気づかれないほどの“ズレ”だった。
澪が言葉を発さなくなったのではない。
笑わなくなったのでもない。
表情も、態度も、以前と変わらなかった。
それでも、周囲の人間はある日、ふとした瞬間に“あること”に気づいた。
「……今、あの子の目を見ていたはずなのに、思い出せない」
「澪さまと話した記憶があるのに、何を話したか、全部ぼやけている」
「会話の最中、あの子の“声”が聞こえなかった気がした……」
それは澪自身が意図して放ったものではなかった。
ただ彼女の“内側”で、“拒絶”という名の呪が芽吹き、空間の定義を歪ませていた。
•
ある日、ユリウスは澪の部屋を訪れた。
剣術の練習の合間、何気ない挨拶のつもりだった。
「澪。最近、顔を見てないと思ってな」
部屋の奥に澪はいた。
書物を読んでいた。
振り返らなかった。
それでもユリウスは言葉を続けた。
「父上が言っていた。“お前がこの家の未来だ”と。
だが……それでいいのか?」
彼は問いをぶつけたかった。
その無表情の奥に、本当に何かがあるのか知りたかった。
だが――
その瞬間、彼の“視界”が、ぼやけた。
澪がいるはずの空間が、“焦点の合わない灰色の壁”のように、ぼやけて見えなくなる。
目を凝らしても、耳をすましても、“存在”として捉えられない。
「……っ、なんだ、これは……?」
身体の奥に冷たい汗が走る。
背筋が凍るような、不在の存在感。
澪が、声を出さずに呟く。
「そういう顔、見飽きた」
それは、音ではなかった。
言葉ですらなかった。
それは、“意味の断絶”だった。
ユリウスはそのまま、逃げるように部屋を出た。
だが、廊下に出た瞬間――彼はすでに、“澪の部屋に入った理由”を忘れていた。
そして、戻る勇気を二度と持てなかった。
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澪は静かに頁をめくる。
魔導書でもなければ、歴史書でもない。
ただの童話集。
――でも、その中の“あるページ”だけが、白紙だった。
(記録されていない、というだけで、こんなにも安心するのね)
彼女はそう思いながら、本を閉じた。
赫刃は、その膝元で眠っていた。
触れてもいない。
手に取ってもいない。
けれど、赫刃は澪の感情の変化を受けて、かすかに刃を震わせていた。
「私が何かを望めば、皆がそれを“理解した”と錯覚する。
でも、私が何も望まなければ――誰も、私のことを“定義できない”」
それは、澪にとっての“快適”であり、
同時に、“耐えがたい孤独”でもあった。
だが彼女は、後者を受け入れることを選んだ。
孤独なら、誰も自分に執着しない。
誰も、自分を愛さない。
誰も、自分を傷つけない。
そして――自分も、誰も愛さずに済む。
•
その日から、澪は周囲の記憶から徐々に“空白”として扱われはじめた。
存在はしている。姿も見える。声もある。
けれど、“言葉にできない”。
“あの子”“あの方”“あの存在”――
そう呼ばれ、語られ、恐れられ、崇められる。
それは、まるで――
神と呪いの境界に咲いた、“赫ノ花”のようだった。




