第九話:おぞましきノイズと、銀に咲く小夜時雨
爺ちゃんの指輪は、女の子たちの本音を聴かせてくれる。時にそれは愛らしく、時に悲痛で、人間らしい感情の揺らぎに満ちていた。だから俺は思い込んでいた。この指輪から響くのは、人間の心だけなのだと。
……あの悍ましいノイズを耳にするまでは。
十月の半ば、俺のクラスに一人の転校生がやってきた。名前は雨宮しずく。長い黒髪を後ろで緩く結んだ、どこか儚げで、庇護欲をそそるような静かな美少女だった。クラスの連中は一瞬で彼女に魅了され、教室は歓迎の空気で満ちていた。
だが、ホームルームが終わって廊下に出た時、事件は起きた。歩いてきた雨宮と、ほんの一瞬、肩がすれ違ったのだ。
「あ……ごめんなさい」
雨宮が小さく頭を下げて微笑む。その瞬間、俺の左手の小指にある銀の指輪が、かつてない激痛を放った。まるで氷点下の液体に指を突っ込まれたような、骨まで凍りつくような冷徹な痛み。そして、俺の脳内に流れ込んできたのは、言葉ではなかった。
「ギチ……ギチギチギチ……ジジ……ッ……」
背筋が総毛立った。それは、無数の虫の羽が擦れ合うような不快な音と、古いラジオの砂嵐が混ざり合った、おぞましいノイズだった。人間から発せられる本音の暖かみや湿り気が、そこには一切存在しない。さらに意識を集中させると、その耳障りな不協和音の隙間から、何十人もの見知らぬ人間が「助けて」と泣き叫ぶような声が、幾重にも重なって響いてきた。
(なんだこれ……。こいつ、一体何なんだ……?)
冷や汗が止まらなかった。雨宮しずくは、いつもの穏やかな笑顔のまま、クラスの女子たちの輪へと戻っていった。指輪が告げていた。彼女の形をしたその『ナニカ』は、人間ではない。
◆
異変はすぐに始まった。雨宮が来てから、クラスの様子が急速に奇妙な方向へと傾いていったのだ。彼女と親しくなった女子グループのメンバーが、一人、また一人と、生気を失ったような顔で学校を休むようになった。しかも、辛うじて登校してきた女子たちも、まるで感情を抜き取られた人形のように、雨宮の言うことなら何でも従うようになっていた。
俺は危機感を覚え、図書委員の白石に相談した。白石は俺の深刻な表情を見て、すぐにただ事ではないと察してくれた。彼女が持つ独自のネットワークと情報収集能力で雨宮の過去を調べてもらうと、数時間後、信じられない事実が浮上した。
「渡辺くん、これを見て……」白石がスマートフォンに表示された古いネットの掲示板のログを指さす。
「雨宮さんが以前通っていた二つの学校でも、全く同じことが起きてる。彼女と親しくなった人が、みんな精神を病んで、最終的に集団不登校になってるの。まるで、周囲の『心のエネルギー』が根こそぎ吸い取られたみたいに」
白石の指輪からは、恐怖と、同時に友人を守ろうとする強い決意の本音が聴こえた。――怖い。でも、渡辺くんが戦うなら、私は逃げない――。
「ありがとう、白石。これ以上、クラスをめちゃくちゃにさせるわけにはいかない」
確信が持てた。雨宮しずくという少女は、周囲の人間の精神を貪り食う『怪異』の依代か、あるいは怪異そのものなのだ。
◆
その日の放課後。夕闇が急速に教室を支配していく時間帯だった。忘れ物を取りに戻った俺は、無人の教室の窓際に、一人で佇む雨宮の姿を見つけた。オレンジ色の夕日が彼女の影を異常に長く、歪んだ形に引き延ばしている。
「あら、渡辺くん。どうしたの?」
雨宮がゆっくりと振り返る。その瞳には光がなく、深い底なしの沼のようだった。彼女が一歩近づくごとに、俺の小指の指輪が悲鳴のような拍動を刻む。脳内のノイズが、頭痛を催すほどの爆音となって響き渡る。
「ねえ、渡辺くん。私とお友達になってくれる? あなたのこと、もっと知りたいな」
彼女の手が俺の胸元に伸びてくる。その瞬間、嵐のようなノイズの奥から、歪んだ何重もの声が、明確な一つの『本音』を結んで弾けた。
――コレ……イイ器だ……心ガ、強い……ツギハ、ワタナベ、オ前ノ心を、喰ウ……――
雨宮本人の声ではない。彼女の体を乗っ取り、次なる獲物を値踏みするバケモノの本音だった。雨宮自身もまた、とっくの昔に心を食い尽くされた最初の被害者に過ぎなかったのだ。
恐怖で足がすくみそうになる。だが、俺は数日前に九条さんから聞いた、爺ちゃんの言葉を思い出していた。『この手を離したら、男が廃るんだよ!』。爺ちゃんが命がけで人を護ったように、俺もここで引くわけにはいかない。この指輪は、ただ本音を覗き見るための悪趣味な道具じゃない。誰かの絶望を遮り、悪意から身を護るための、職人が魂を込めた『魔除け』だ!
歯を食いしばり、一歩前に踏み出そうとしたその時。
脳内を埋め尽くしていたはずのおぞましいノイズが、突如としてピタリと止んだ。
代わりに、しんしんと降る冷たい雨のような、澄んだ鈴の音が響く。
同時に、左手の小指がカッと熱くなった。見れば、銀色の指輪の表面から、まるで本物の陽炎のように淡い光が立ち上っている。光は瞬く間に膨れ上がり、教室の影を飲み込むようにして、一人の少女の輪郭を形作っていった。
「う、わあぁっ!?」
俺は思わず情けない声を上げ、激しく後ろに飛びのいた。勢い余って机に腰を強打する。
無理もない。今までただ「声」が聞こえるだけだった指輪から、文字通り『人間ではない何か』が実体化して現れたのだ。
そこにいたのは、漆黒の着物を崩して纏った、この世のものとは思えないほど美しい少女だった。透き通るような肌に、妖艶に光る瞳。
幽霊、あるいは、指輪に宿る本物のあやかし――。心臓が早鐘を打ち、冷や汗がドッと吹き出す。怪異に続いて、今度は指輪そのものから化け物が出てきたのかと、俺は完全にパニックに陥りかけた。
そんな俺の混乱を余所に、少女は静かに微笑み、俺の背後に回り込むようにして寄り添った。
「……またこの嫌な音が聞こえるね。待たせたね、じいちゃんの孫。ここからは私が耳を貸してあげる。あいつ(怪異)のハジき方を教えてあげるよ」
彼女の冷たい幻肢の指が、俺の左手にそっと重ねられる。
その瞬間、あんなに激しく乱れていた俺の鼓動が、嘘のように静まった。頭を支配していた恐怖が消え去り、代わりに澄み切った冷徹な力が、全身の血管を駆け巡る。
(このお化け……俺を助けてくれるのか……!?)
驚きは未だ消えない。しかし、彼女から伝わる不思議な温もりが、俺の背中を強烈に押し上げていた。
「ふざけるな。人間の心を、これ以上オモチャにするんじゃねえ!」
俺は少女――『小夜』の導きに従い、伸びてきた雨宮の手を強く掴んだ。そして、そのまま左手の小指の指輪を、彼女の額へと強く押し当てた。
「ジジイの遺した力を……舐めるなッ!」
次の瞬間、指輪の銀色の細工が、目も眩むような鮮烈な白光を放った。小夜の妖力と、爺ちゃんの遺した魔除けの力が一つになり、強烈な『拒絶の波動』となって雨宮の体内へと叩き込まれる。
「キ、ギギ、ギチチチチチ――ッ!?」
雨宮の口から、人間のものとは思えない金属的な悲鳴が上がった。彼女の身体から、無数の黒い霧のような影が吹き出し、教室の天井へと逃れていく。バケモノの気配が、窓の隙間から這い出て、夜の街へと霧散していくのが見えた。
「あ……っ、私……何を……」
光が収まると、雨宮はその場に崩れ落ちた。だが、その瞳には、確かに先ほどまではなかった「生きた人間の光」が戻っていた。指輪の激痛は消え、そこからは――冷たい暗闇から、やっと抜け出せた。誰かが私を、見つけてくれた――という、消え入りそうな、しかし純粋な少女の涙の本音が聴こえてきた。
◆
翌日から、学校を休んでいた女子たちは嘘のように体調を回復させ、教室にはいつもの日常が戻ってきた。雨宮も、まだ少し怯えがちではあるものの、本当の意味でクラスに馴染み始め、時折俺の方を見ては、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑むようになった。
事件は解決した。だが、怪異は完全に滅んだわけではなく、この街のどこかの闇に潜んでいる。
放課後、誰もいない屋上で、俺は小指の指輪を見つめた。金属の表面は、怪異の呪いを浴びたせいか、以前よりもどこか深い光沢を帯びているように見える。
「おいクソジジイ。お前、生前こんなヤバい連中とも戦ってたのかよ」
指輪から返ってくるのは、ただ静かで温かい、心臓の鼓動のようなリズムだけだ。だが、今の俺にはそれが「これくらいで音を上げるな」という、爺ちゃんの不器用な叱咤のように感じられた。
と、その時。
小指の指輪がジリリ、と小さく愛らしく震えた。頭の中に、さっきの少女――小夜の、少し拗ねたような、けれどひどく艶っぽい声が直接響いてくる。
――ふん、じいちゃんばっかり。私の力もあったってこと、忘れないでよね、航平。……まぁ、さっきあんなに情けなく腰を抜かした割には、最後は少しだけ、じいちゃんに似て格好良かった、かな?
姿は見えない。けれど、指輪を通じて伝わってくる小夜の『本音』は、まるで熱いお湯に浸かっているかのように温かく、そして強烈な独占欲に満ちていた。
――あんな人間のメスどもばかり構ってないで、早く私だけの依代になってよ……。私の可愛い、航平……。
さっきの凛とした「頼れる相棒」のような態度と、内面の「妖艶で危険なヤンデレあやかし」の激しいギャップ、そしてそもそも本当にあやかしが指輪にいたという事実に、俺の心臓は別の意味で爆発しそうになる。
「……まったく、爺ちゃんの言う通りだ。女は何歳になっても、あやかしになっても、お姫様なんだな」
俺はまだ少し震える手で小指の指輪をそっと撫で、大きなため息をついた。
人間の綺麗な本音だけじゃない。怪異の闇、そして指輪の内に潜む美しくも恐ろしいあやかしの愛までをも巻き込んで、俺の高校生活は、いよいよ本格的な修羅場へと突入していくらしい。




