第八話:白紙の進路希望と、夜空のトランプ
爺ちゃんの指輪のおかげで、図書委員の白石、陸上部の新田、そして塾の藤沢先生なんかの本音を知り、彼女たちを救うことができた。最近じゃ学校でも塾でも、向けられる視線がやたらと熱い。男子高校生としては完全にモテ期到来といったところだが、この指輪はそんな浮ついた俺の日常に、時折とんでもなく重い現実を突きつけてくる。
十月中旬。進路希望調査票の一次提出を明日に控えた日の放課後だった。
教室の窓からは、茜色の夕焼けが差し込んでいる。俺は自分の適当に「経済学部」と書いた紙をカバンに押し込み、ふと、斜め前の席に座るクラスメイトの背中に目を止めた。
星野詩織。
いつも学年トップクラスの成績で、授業中は背筋をピンと伸ばしてノートを取っている、真面目を絵に描いたような女の子だ。大人しくて目立たないタイプだが、誰もが「星野なら当然、いい国立大学に行くんだろうな」と疑っていなかった。
だが、その時の彼女は、いつもの凛とした雰囲気とはまるで違っていた。
机の上に広げられた進路希望調査票。その第一志望から第三志望の欄は、まるっきり白紙だった。彼女は細い指先で、その白い紙の端を、破れそうなほど強く握りしめている。
その瞬間、俺の左手の小指の指輪が、ずんと沈み込むような、冷たくて重い痛みを放った。
頭の中に流れ込んできたのは、静かで、だからこそ胸が締め付けられるような、悲壮な諦めの声だった。
――勉強したいな。もっと、たくさん本を読んで、大学で研究してみたい。……でも、無理だよね。お母さん、夜遅くまでパートして、私のためにボロボロになってる。これ以上、私一人のわがままで迷惑をかけるわけにはいかない。私さえ高校を出てすぐ働けば、下の妹たちの学費は何とかなる。……だから、諦めなきゃ。
俺は息を詰まらせた。
これまでの人間関係の悩みやプレッシャーとは違う。彼女が直面しているのは、高校生の力ではどうにもできない「経済的な事情」という冷酷な現実だった。
学びたいという強い願いを、家族を想う優しさで無理やり押し殺している。その本音は、どんな泣き叫ぶ声よりも痛々しかった。
放課後の教室で一人、白紙の紙を見つめ続ける星野。
俺なんかが口を挟んでいい問題じゃない。そう思いつつも、おじいちゃんの過去の武勇伝が脳裏をよぎった。
『なぁ、航平。女が「自分のやりたいこと」を諦める時ってのはな、大抵は自分のためじゃなく、誰かを守るためなんだ。だけどな、そんな風に自分の未来を犠牲にして笑える女なんていねえんだよ。男なら、その子が全部を背負い込む前に、別の道があるってことを教えてやるもんだぜ』
「……本当に、引き出しの多いジジイだな」
俺は小さく息を吐き、星野の前の席に、椅子を反対向きにしてドカッと腰掛けた。
「ひゃいっ!?」
星野は飛び上がるほど驚いて、慌てて白紙の調査票を両手で隠した。大きな眼鏡の奥の瞳が、完全に動揺している。
「わ、渡辺くん……? どうしたの、急に」
「いや、ちょっとさ。星野って頭いいじゃん。この数学の応用問題、どうしても解けなくて教えてほしいんだよ」
俺は適当に開いた参考書を机に出した。ハッタリだ。勉強の質問という口実なら、彼女も無下に断れない。
星野は戸惑いながらも、隠した調査票をそっと机の引き出しにしまい、「あ、うん。どこ……?」と覗き込んできた。
彼女は丁寧に解説してくれた。自分の悩みを隠すように、いつも通りの「真面目な優等生」として。だが、指輪からは相変わらず、ひんやりとした悲しみが伝わってくる。
「……ありがと。さすが星野だな。お前なら、どこの大学でも一発合格だろ」
俺が何気なさを装ってそう言うと、星野の表情が一瞬だけ、ガラスがひび割れるように強張った。
「そんなことないよ。私……大学には、行かないかもしれないし」
「え、なんで? もったいねえじゃん」
「……進学だけが全てじゃないでしょ。私は、早く就職して、自立したいの。その方が、効率がいいから」
彼女は眼鏡のブリッジを押し上げ、わざと冷淡な声で言った。自分に言い聞かせ、周囲の期待を遮断するための嘘。
指輪から伝わってくるのは、――痛い、そんなこと言いたくない、本当は大学に行きたいのに――という、引き裂かれそうな胸の内だった。
「効率、ねえ」
俺は背もたれに体重を預け、星野の目を真っ直ぐに見つめた。
「星野さ。お前、トランプのゲームで、最初から強いカードをたくさん持ってる奴と、弱いカードしか持てなかった奴、どっちが勝ったら面白いと思う?」
「え……? 何、急に」
「いや、配られたカードが悪いからって、勝負する前にゲームを降りちゃうのはつまんねえなって思って。世の中にはさ、親の金で当たり前みたいに大学行く奴もいれば、そうじゃない奴もいる。でも、配られたカードが最悪でも、ルールを味方につければ、大逆転できる方法ってあるんだぜ」
星野はきょとんとして、俺の言葉の意味を測りかねているようだった。俺はカバンから、スマホを取り出して画面を見せた。あらかじめ調べておいた、あるページの画面だ。
「これ、知ってるか? 大学の『特待生制度』と『給付型奨学金』」
「……え?」
「成績が優秀なら、四日間の学費が全額免除になる大学って結構あるんだよ。それに、今の給付型奨学金って、返す必要がないんだぜ。星野の成績なら、特待生の枠なんて余裕で狙えるし、奨学金の審査だって間違いなく通る。……お前が家にお金を入れなきゃいけないって言うなら、大学に行きながらバイトして、浮いた学費の分を家に仕送りすることだってできるだろ」
星野は息を呑み、スマホの画面を凝視した。その瞳が、激しく揺れ動く。
「でも……そんなの、上手くいくわけ……」
「やってみなきゃ分かんねえだろ。お前が一人で勝手に限界決めて、全部諦めて高卒で働き出したら、お前のお母さんは喜ぶと思うか? 『私のせいで、この子の未来を奪ってしまった』って、一生自分を責めるんじゃないの?」
星野の身体が、ビクリと震えた。
「お前がお母さんを大事に思ってるのと同じくらい、お母さんだってお前の未来を応援したいはずだ。一人で全部背負い込んで、勝手に犠牲者ぶるなよ。ルールを調べて、使える制度は全部使って、泥臭くても自分のやりたいことを掴み取りにいくのが、本当の『頭がいい奴』のやることだろ」
「渡辺、くん……」
星野の目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。
彼女は机に顔を伏せ、声を押し殺して泣き始めた。ずっと真面目に、良い子として耐えてきた彼女の心が、初めて弱音を吐き出した瞬間だった。
指輪から伝わってくる感情が、冷たい諦めから、温かい希望と、激しい熱を帯びた「生きたい」という願いへと変わっていく。
「私……大学に行きたい。もっと、勉強したい……!」
「おう。だったらその白紙の紙に、行きたい大学の名前、片っ端から書いてこい。制度の調べ方なら、俺も手伝うからさ」
俺は彼女の頭をポンと一度だけ叩くと、「じゃあな」と席を立った。女の子の泣き顔を見るのはやっぱり少し照れくさい。夕焼けに染まる教室を後にする俺の背中で、指輪はまるでお風呂に入っているときのような、心地よい熱を放っていた。
◆
それから二週間後。
一次提出された進路希望調査票を手に、担任の教師が「星野、お前、本気でこの特待生枠を狙うんだな? よし、先生も全力でサポートするぞ」と職員室で太鼓判を押しているのを見かけた。
星野はお母さんともちゃんと話し合えたらしく、お母さんは「あなたの人生なんだから、全力で頑張りなさい」と泣いて背中を押してくれたそうだ。
そんなある日の放課後。
俺が部活の用事で廊下を歩いていると、「渡辺くん!」と声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのは星野だった。いつもの眼鏡姿ではあるが、その表情は驚くほど晴れやかで、どこか大人のような芯の強さを感じさせた。
「星野。進路、決まったみたいだな」
「うん。渡辺くんのおかげ。あの後、お母さんとたくさん話し合って……特待生と奨学金を使って、絶対に国立の文学部に進学するって決めたの」
彼女は一歩近づき、少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「私ね、配られたカードが悪いって、ずっと拗ねてた。でも、渡辺くんが『ルールを味方につければ大逆転できる』って言ってくれて、世界が変わったの。私のこと、そんな風にちゃんと見ててくれて、手を引いてくれて……本当に、ありがとう」
夕方の廊下。窓からの光が、彼女の少し赤くなった頬を照らしている。星野は少し上目遣いになりながら、モジモジと指先をいじった。
「あのね……もし、無事に合格できたら、その……私を、お祝いのデートに連れて行ってくれませんか……? 渡辺くんと、二人きりで、大逆転の記念に……」
蚊の鳴くような声でそう言った彼女の心の声は、指輪を通じて、凄まじい音量で流れ込んできた。
――心臓が止まりそう! 嫌われたらどうしよう! でも、私のヒーローになってくれた渡辺くんに、どうしても気持ちを伝えたかったの……!
普段の真面目で大人しい姿と、内面の熱烈な乙女心のギャップに、俺の心臓までドクンと跳ね上がる。真面目な子の決死の覚悟は、破壊力が桁違いだ。
小指の指輪が、夕焼けよりも熱く、誇らしげにジリジリと輝いていた。
「……まったく、爺ちゃんの言う通りだ。女はどんな時でも、お姫様なんだな」
俺は覚悟を決めて苦笑し、「合格祝い、今から楽しみにしてるわ」と、彼女の誘いに頷いた。
どうやら俺の高校生活は、クラスの特待生美少女まで巻き込んで、いよいよ本格的な修羅場へと突入していくらしい。でも俺のこの話ってちょっと都合が良すぎねえかなあ。




